春はお芝居、秋はコンサート、と美輪明宏さんから
ご招待を頂きます。今日は、コンサートでした。
今回はトークが多く、三島由紀夫や江戸川乱歩などとの
交流を興味深くうかがいました。
美輪さんには「春、秋とお彼岸のように美輪大明神詣で」と
申し上げているのですが、この方のステージに接するつど
「情緒を一定に保つ」ことの大切さを思い出します。
心がささくれ立つことも多い浮世ですが、そのつど自らを
潤いのある情緒に引き戻す、そういう作業がとりわけ
私のような仕事には必要であるし・・・・一般の方々にも
大事な心がけであるかもしれません。
敵意も憎悪も、それなりのエネルギーにはなりますが
何も生み出しはしません。
帰宅後、仕立て上がった着物を受け取りに行ったら
着物と、手の甲に金粉が浮き、最近ひんぱんに
この現象が起きます。
さて、コメント欄に以下の書き込みをちょうだいしたので、
最小限お答えしたいと思います。
遅くなりまして、申し訳ございません。
「人間存在の対等性」というタイトルで
2017-09-07 00:37:33
武田康弘さんによる
コメ欄への書き込みです。
ブッダ思想の核心ですが、ほんらい人間存在に上下はなく、みなが唯我独尊です。
生まれながらに特別の敬語で遇する存在を置くのはやめにしませんか。
皇室は、日本の最大の旧家として遇し、人権=自由な人間として生きることを保障しなければ、と思います。
天皇は、文化的存在として認め、政治や国事行為には関わらず、元首は大統領を選ぶ共和制の日本にすれば、明治維新で破壊された伝統のよきものも復活するでしょうし、また
主権在民、対等と自由の民主政(市民精神に基づく)も花開くはずです。
明治維新政府がつくった近代天皇制(靖国思想=国体思想)に終止符を打たないと、いつまでも「戦前思想」(伊藤博文らの水戸学に基づく)の亡霊につきまとわれると思います。
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>ブッダ思想の核心ですが、ほんらい人間存在に上下はなく、みなが唯我独尊です。
はい。実存的意味では、皆平等です。
しかしながら、ジャイナ(ヒンドゥ)に源流を持つ仏教は、
輪廻転生を唱えます。
つまり、それぞれのカルマにより生まれ落ちる環境、能力、容姿などが
定まるのであり、この三次元のみの視点で見れば、
不平等極まりないのが人の世です。
>生まれながらに特別の敬語で遇する存在を置くのはやめにしませんか。
意味不明ですが・・・・?とりあえず、日本の象徴としての扱いであり、それは国家国民の共通認識である以上、言葉における敬意は常識だと思いますが?
日本語の特質というものがございます。敬語が存在するということは、敬するに値する方、もしくはその地位にある方、目上の方に敬語を用いるのはむしろ常識でしょう。
王室を頂く諸国でも、最小限に敬語は用います。
あなたも「皇室は、日本の最大の旧家として遇し」とおっしゃっています。
日本最大最古の旧家として、敬語は自然なことではないでしょうか?
日本が古来より解体せずに来たのは、天皇という存在ありてこそで、
そこへの敬意は自然なものだと思われます。
また、神道の祭祀王を語るのになにゆえ、仏教を持ち出されるのか、その真意も測りかねています。
>政治や国事行為には関わらず、
政治には関わってはならぬことに、定まっています。問題点は、むしろ
「平和憲法護持」を表明されて結果的に安倍政権を否定なさったり、
報道されることが事実であるなら、韓国に謝罪に行きたいとおっしゃることなどが
著しい、逸脱でしょう。
国事には関わってはいらっしゃいませんね。儀礼・・・儀式の範疇で、そこに象徴としての記号的意味合いで存在なさっているに過ぎません。
行為への権威付けのためであり、実質的意味はなく、つまり国事行為への関与ではございませんね、言葉の厳密な意味では。
>人権=自由な人間として生きることを保障しなければ、と思います。
それは、皇室存在の基本的否定です。
否定はご自由ですが、そもそも皇室の是非論は別次元のこと。
王室並みに人としての自由をおっしゃるなら、それはもはや皇室では
ございませんね。
>天皇は、文化的存在として認め、政治や国事行為には関わらず、
文化的存在というごとき、曖昧な存在ではありません。神道の祭祀王です。この国最大の神官が天皇です。
>主権在民、対等と自由の民主政(市民精神に基づく)も花開くはずです。
明治維新政府がつくった近代天皇制(靖国思想=国体思想)に
押し寄せてくる海外からの侵略勢力に対して、俄仕立ての天皇制が設えられた側面はいなみ難くございますが、しかし本来は神道が日本人の霊感から自然に生じた如く、天皇自体が国民総意による一つの神話、ないしは幻想、ないしは直感(霊的インスピレーション)から「自然発生」したご存在です。
そこが、力で頂きに上り詰めた王室とは異なる点です。
日本は聖教一致とでも申すべきでしょうか、祭祀王と宗教的権威が一体化されています。(このところ、それが揺らぎつつあるのが現実ですが)
王室では、祭祀には外に司教など別存在がいます。
また靖国思想とおっしゃいますが、今むしろ上陛下が靖国神社に参拝なさらぬことことこそが、問題であろうというのが私の捉え方です。
誤変換他、後ほど推敲致します。