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Channel: 井沢満ブログ
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ショーとしてのシーン

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東京は夜来の雨もどうやら上がり、午前中公園に出かけ裸足になってベンチに腰を下ろし、コーヒーを飲みながら恒例のアーシングをやって来ました。

7話連続の今夜が最終回です。

◆『明日の君がもっと好き』脚本家・井沢満さん単独インタビュー<後編>「本当の恋とは何か?」 – テレ朝POST

 http://post.tv-asahi.co.jp/post-39426/amp/

 

取材に対して述べているように、いくつか「実験」をしています。
年がうんと下の妹と掴み合いのケンカをするのか・・・・と茜役の伊藤歩さんが
悩まれたようですが・・・・人さまざまで、私は母と娘が凄まじい掴み合いの
ケンカをしているのを目撃したのが、5歳の時。
とっさに掴んだ鍋を娘の頭に振りかざした母親の形相が、脳裏に刻印されました。
娘は東京でモデルをしているという話も幼いながらに理解していて、容姿の優れて
いる人でした。子供ながらに娘の男問題だなあ、と解っていたので
早熟だったのでしょう。

母と娘でさえ、生理的に合う合わないはあるのです。時に仇敵のように憎み合うことも。
そこに相手がいるというだけで、イライラする関係も。
前世がらみであることも、あります。かつての敵対の関係をこの世に持ち越したケースは
珍しくありません。と、怪しげな話はこの程度で。

世の中の考えられないような、親から子への虐待は必ずしも理屈で説明できる
わけではありません。

妻の連れ子に対する養父の虐待は、理屈でとりあえず説明できる部分ですね。

世の中にはこれといった具体的理由はないのに仲の悪い親子、きょうだいなど枚挙に暇がありません。
ドラマの中における姉と妹は、しかしケンカすることじたいがスキンシップであり
裏返せば密着した関係でもあります。
他人どうしはこうも、ひんぱんに掴み合いはしません。

ということを前提に、ドラマとしてのショーアップの意味もあります。
だからト書きに「ショーでありたい」と書いた部分です。

役者は、役の性根を一本の線を自分の納得できる形に引きたがり、それは
役者の生理とも言うべきものですが、時にはそれから跳ねてショーとしての
見せ場でやって欲しいことがあります。

役者は自分の生理も大事ですが、お客さんをどうもてなすかを優先したほうが
いい場合があります。

歩さんも、そこは納得してくださったようで最終回のきょうだいげんかは、
ちゃんと「娯楽」として成立しています。ケンカじたいが、一つの”見世物”に
なっています。

三田佳子さんのようなベテランだと作家のそういう狙いは百も承知で
「リアリズムから離れ、上海雑技団の変面で見せてください」と
お願いしても、技術上のことでは悩まれながらも、なぜそうなのか説明の必要が
ありません。

私のような、癖の強い脚本に初めて遭遇する若い俳優たちには役作りで
どうしていいのか、模索した時間もあったようですが、始まってほどなくして
市原隼人さんが「ドラマって、ドキュメンタリーじゃないんですよね」
と言ってくださって、ああ解っていただけたなぁ、と思ったのでした。

最終回では、皆さんがそれぞれ狙いを100%理解が行き届いての芝居を
見せてくださっています。

余談ですが、茜が遥飛に押し倒されながらもつい感じてしまう、脚本では
「女のボタンが押されたのか、反応してしまう」というような書き方を
したかと思うのですが、役より「自分をよく見せたい」女優さんの中には
「好きな人がいるのに、好きでもない人に感じてしまうなんて」と
抵抗する人もいそうですが(頭の悪い人はどの世界にも生息しています)、
歩さんはしっかり受け止めて、ト書き通りに演じてくださいました。

 

誤変換他、後ほど。

 


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