海外で日本映画のトップに上げられる「七人の侍」を観た。
唸った。何という完成度。シナリオ、役者、音楽、演出は言わずもがな。
完璧。
折々に息抜きの笑いを散りばめているのだが、しかし余りの緊密度と面白さに、息苦しくなるほどで私は数回映像を止めて、休憩したぐらいだ。
1954年(昭和29年)の製作で、私もさすがにオンタイムでは観ていないが、それでも相当若い時期に観て、しかし息苦しくなることもなく脳裏に残ったのは雨中の壮絶な戦いのシーンのみ。幼かったのだ。物語の緊迫度に加え、プロとしての分析でも見るのでその計算の巧緻に行き届いた様も、見事過ぎて欠点という一種のツッコミどころという余裕がないことも呼吸困難に陥った理由である。
幼い頃見落としていたのは若い武士と百姓の娘との情交のくだり。女がいつも添え物で、男の影にしかいないのが黒澤映画の特徴であるが、今回は違った。思春期を迎え異性への関心と性欲を体にみなぎらせた村娘が若い武士に迫るくだり、珍しく女のアップを使い息を飲んだ。
黒澤は偉大なアルチザンであるが、アーチストではないという三島由紀夫の批評(けなしているのではない)に与する私だが、娯楽も突き詰めればアートではないか、というのが作品を観ての感想だった。
そして何より、品格。下品を描いても、ゲスに堕ちぬのが品格であるが、黒澤映画に共通するのはその品性である。昨今の日本映画に決定的に欠落している所。
映像の物書きとして最盛期にあった頃、わりにしばしば問いかけられたのは「監督はやらないのか」であり、「朝起きが苦手だし、私には集団の統率力がない」とそのつど答えて来たのだが、思えば朝起きも統率もその気になって腹を据えれば出来ぬことでもなかろう。
私に決定的に欠けているのは画面を作り上げる「絵心」なのだ、と「七人の侍」という大傑作を前に改めて思い知ったことだ。絵コンテの一つも描けず監督は務まらない。
これからしばらく、ほぼその全てを観ている黒澤映画をもう一度見直して観ようと思う。
ただ、初期中期が黒澤映画のピークに達していて晩年に到るほど輝きが失せていた、という感想は変わらない気がする。技術は円熟して来るはずなのに、創り手としての生命力の衰えであり、こわいことだ。漫画家も命の衰えを迎えると絵が下手になると編集者に聞いて、唸ったことがある。単に手先のことではないのである。
それはおそらく文の書き手も同じこと。三島由紀夫もまた晩年に近い作品には、かつての漲るようであった輝きが褪せて来たと思う。
こんな天才と自らを並べる愚はしないが、しかし半端な物書きにも切実な問題ではあり、さればこそ「君の名で僕を呼んで」という見事なシナリオを書き上げた作家が90歳を超えていることが、心の支えなのだ。いつまで書き抜けるやら、ただ営々と言葉を磨き感性をみずみずしく保つ努力を続けるしかない。
最後に、「平和」と唱えつつ村人が9条を持ったとしたら野盗と化した野武士の狼藉が防げたのか、止んだのか、という余計な政治的一言を付け加えておく。