Quantcast
Channel: 井沢満ブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1913

月が縮んで、心も縮む

$
0
0

 「韓流大好き」「韓国は日本の兄」と口走っているのが、
文化庁長官なのだと息巻いている友人がいて、
私が「え、そんな人に見えなかったけどなあ」と言ったのは、
「わが家」という作品で芸術祭の優秀賞を頂いた授賞式で文化庁の
長官にはお会いしたことがあるからだ。

「韓国は兄」などと、今どきこのご時世で韓国発想・中国由来儒教思想を
けろけろ喋る浅薄な人とは思えなかったので、調べたらとっくに
文化庁長官は交代になっていて、痴呆発言の主は宮田亮平氏だった。

いわく「1000年、500年前に韓国文化が日本に伝えられました」。
宮田氏は、金属工芸作家だそうだが頭は錆びて腐食した金属であろう。

 李氏朝鮮の苛斂誅求で極貧に喘ぎつつ、国自体は中国の属領として
その国旗の模様さえ、中国の周易からの借り物。
「大清国属」の文字が添えられていた。属国から開放されたのは
日本が日清戦争で勝利を収めて後のことである。
韓国には清の冊封体制から脱出した「独立門」があり、
これは日本からの独立記念と教え込まれている韓国人が大半だが、
実態は日本が清から「独立させてあげた」記念門なのである。

文字無き国民に、一体どんな日本に伝えるべき文化があったというのか、
宮田亮平氏は述べよ。染料もない、朝鮮通信使として日本の文化を
盗みに来ても、水車一つ作れなかった国が日本に、何をもたらしたか、
答えよ。中国発のあれこれの通り道に過ぎなかったのが
韓国であろうに。日本が韓国から独自に得たものなど、皆無に等しい。

文字無きと書いたのは、識字率である。諸説あるが、とりあえず平均値を
採るとして、1910年代の韓国で男性40%、女性を含めると20%。
国民の半数以上が文盲であった。ハングルは両班と呼ばれた貴族階級の
寡占であった。

翻って日本。日本語のローマ字化を画策したGHQ(教育使節団)が
調べさせたところによると、

15歳から64歳までの約1万7千人を対象に調査、漢字の読み書きができなかった者は、2.1%。 つまり識字率は97.9%だったことにアメリカは
腰を抜かした。
当時のアメリカ人の識字率は知らないが、100%に
近い数字は絶対にないはず、とりわけ1940年代には。現代でも
「大人の4人に1人が自分の名前程度しか読み書きできない」と
言われている国である。
そんな国が、よくもまあ日本語から漢字とついでに平仮名もカタカナも
追放、アルファベットの国にしようと自惚れられたものだ、と
怒りの矛先が戦勝国に向いてしまったが、一国の文化の高さと
成熟度の端的なメジャーが実に言葉、その国の国語なのだ。

昔シドニーに暮らしている頃、郵便局で現地の人に「sorrow」のスペルを
教えて、と頼まれたことを思い出す。
お悔やみの電報を打つところだろうか、と慎んでお答えした。

武士の識字率が100%であったことは当然だが、庶民のためには
寺子屋という世界にも類例のない教室の門戸が開かれていて、
読み書きはあまねく教え込まれていた。
指を折らねば簡単な計算すら出来ない私が言うのもなんであるが、
読み書き以外にソロバンという算数まで行き渡っていたのである。

「暴れん坊将軍」の再放送を喜んで見ているが、吉宗の時代に
設置された目安箱、あれは庶民が字を書けるということが前提にある。

文字も言葉も文化度であるならば、韓国と日本を並べるも愚かであろうに、
韓国が兄の国、つまり儒教の序列で言えば日本の上であるとは、
おい宮田亮平、貴様恥を知れ。・・・・おっと、血管が切れないように
NASA発表の「月は縮んでいる」説など読んで、
月に寿命があるならば、共に宇宙空間を漂う地球も永久の
存在にあらず、浮世はうたかた、些事に心を乱すまいと
思っていたのに、月と一緒に心まで縮かんではしょうもない。

それにしても、かつての文化庁長官のお名前を見れば
文化人類学者の青木保氏のお名前があり、青春期への
郷愁が胸に噴き上げた。
というのはスリランカで僧の修行をなさったという
氏の記事を新聞で読み、問い合わせの手紙を出したのが
大学生の時。青木氏は若造の稚拙な手紙に、丁寧な
書簡を下さった。スリランカに渡るなら、然るべき
寺を紹介するとまで。後年あることで、スリランカに
趣き、空港からポリス先導の迎車で移動するとき思い出して
いたのが、青木保氏であり(いったい自分は何を
しているのだろう)と思ったのだった。
首相に招かれた先に赴く道すがら、敬意を表するために
着たダークスーツの背中が照りつける太陽にチリチリと焼けるようで
あったことも思い出す。
惑いの多い青春期を遥か遠くに脱してもなお、
人生という焼けたトタン屋根の上で焦慮に飛びはねるような
人生を送っていた頃である。

その当時は出家をぼんやり考えていた。遠離穢土の心、
若年の頃より兆してはいたのだ。踏み切れず世俗にまみれ
馬齢を重ねた果に、浮世のあのことこのことに滅入ったり
立腹したり、振り回されているていたらくである。

今夜、夜空は月を浮かべるだろうか。見上げていきり立つ心を
鎮めたい。見上げても「天誅とつぶやき仰ぐ冬の月」というごとき
駄句を詠む私なのであるが。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1913

Trending Articles