以前、テレビのお宅訪問みたいな番組に出たことがあって、
その時感心したのは、私が自宅で喋る言葉を必ずしも時系列で
順番に映し出すわけではなく、さり気なくもらした一言が
持ってくる位置によって、やたら面白く変貌したりしていて
編集の技に感心したのであったが・・・・
むろん悪用も出来る。
たとえば対論で、一方は冷静なトーンの言葉だけを拾い、
一方を感情的になった時の言葉と表情だけを拾って
つないだら、理性的に語り続ける市長に対して感情的に罵るだけの在特会桜井氏、
という絵柄になる。
実際にそういうある種のフェイクを某番組で見て、ここまで露骨にやるかと呆れた。
それに加えてMCとコメンテーターたちが、全員ーーそう
「一人残らず」声を揃えて、嘲笑的に桜井氏を
裁断するのである。これはいかになんでもアンフェアであろう。
裁判に検事と弁護士がいる理由を考えられたい。
番組の作りによっては、スタジオが一方的欠席裁判の場と化す。
恐ろしいことである。
私はたまたまYouTubeでやりとりの全部、桜井氏の
「飛田新地に帰れ」という最後の痛烈な一刺し、
橋下市長にとっては非常に痛い指摘・・・・・・まで
通しで見聞きしていたので、騙されなかったのだが、
知らぬ人は圧倒的に橋下市長支持になるだろう。
私とて某番組の報道しか知らねば、桜井氏に
一方的に眉を顰めていただろう。
テレビの報道がなにゆえ、一方に加担、偏るのか。
ありのまま公平に報道されたい。
判断は視聴者に預けられたい。
コメンテーターもなぜ一方に片寄せてひと色なのだろう。
つまりは、最初から予定調和で、そういう人選。
発端から最後まで、流れで見た私の感想は先の一文に述べたとおり、
ディベートとしての下品と稚拙さはどちらもどちら。
ただ、橋下市長は桜井氏からの基本的問いかけ、
「在特会のヘイトスピーチのどこが具体的にヘイトなのか」
と冒頭に投げかけられた質問には答えるべきであった。
と、感想は相変わらず変わらない。
討論の前提になることを押さえなければ、そこから対話の発展はない。
その前提に答えなかったのは、橋下市長のほうである。
橋下市長が桜井氏に投げかけた言葉。
「民族とか国籍を一括りにして評価をするような、そういう発言はやめろと言ってるんだ」
これはとりあえず正論。だが、なぜ日本人だけがうなだれて聞かねばならぬのか、私には解らないので、もし私が桜井氏の位置にいたならきっと質問していると思うのだが、橋下市長が桜井氏に取った姿勢は「おれに質問するな」
だった。
日本で一括りにされる民族が僅か一つに特定されるのはなぜなのかも
質問したいところであるが、これに対しても「おれに質問するな」と
口封じさせられるのだろうか。
これでは一方的言い渡しで、討論にならぬではないか。
「大阪でやるな」ともおっしゃるのだが、大阪は橋下氏の庭でもなかろうに。
国益のかかることは、日本のいずこの地でも、フェアに論じ合われるべきであろう。
以上とは別問題であるが、以前橋下氏が文楽についてひどく傲慢で
無知な発言をされていることに辟易としたのだが、大阪市は文楽協会に支給している現行方式の補助金を、今年度限りで廃止する方針だと
聞いて、慨嘆に耐えない。
橋下氏には日本の伝統文化を尊重、日本の精神を理解する心は
おありではないらしい。心が日本人でない人に、日本の行政を
やって欲しくない。