政治を語るとギスギスするので、たまには法隆寺とパルテノン神殿が双方黄金比率で建設されていること。ところが一方は木造なのにいまだ使われ、一方は石なのに朽ち続けていること、など書こうとしていたのですが、どうにもこの世の中的気分というのがあって、そっちを語ると浮いちゃうのですよね。
浮世離れもたまにはいいではないかと、思いつつもだが時代と一緒に呼吸していねばならないテレビ屋の生理が、世の中のザワザワを察知、とてものことに法隆寺とパルテノン神殿を語る気になれないのです。
というわけで、安全保障関連法。
集団違憲訴訟が始まりました。予測通りの流れではありますが、どうも得心行かないのです。
なぜなら、自民党は当初から集団的自衛権は語り続けているわけです、第一次安倍政権の時から。集団的自衛権をそれほど危険視するなら本来、この間の選挙の場で主張すべきではありませんでしたか?
政権公約に堂々と掲げられているのですから、なぜその時批判運動を起こさなかったのでしょう。
https://www.jimin.jp/election/results/sen_shu46/political_promise/bank/d_001.html
議会は多数決なのだし、アメリカからの強い要請もあるので、法案が通らぬ訳もないのに、税金を濫費しつつ延々と国会開催。デモもいったい、日本人やら外国人やら、誰が雇われているバイト要員やら見分けがつかぬままの、結局はから騒ぎ。
内閣支持率は、当初の高さにはありませんが、かといって急激に下がったわけでもなく、その半面反対政党が上がっているわけでもありません。ほぼ動かず。
どこかの調査では、逆にわずかながら安倍政権支持率がアップ、反対政党がこれも微量に下落。いずれにしても騒ぎが派手な割に世の中大して動いていません。
テレビ画面の賑わいほどには、国民の多くは上ずってはいないようです。
野党側のあれこれのやり口も、テレビを通じて見えてきて、さてこれで彼らの理解者が増えたのか・・・・逆効果だったような・・・・。
訴訟もいかがなものかと思うのは、ある裁判官が述懐しているように、「政治家は選挙で国民の審判を受けてきた人、裁判官はそうではない。そうではない司法が国の行方を定めることに口を出すのはいかがなものか」と。
違うと思うなら、選挙を通じて政権交代させるべき、というこの裁判官の意見のほうに正当性があるように思います。
それにまあ、これは何度も私が言うように、憲法そのものに不信感があるのでそこへの違憲性を言われても、腹に落ちてこないというのは事実です。
無論憲法は基本論では順守すべきものですが、しょせんGHQ憲法、改憲がほぼ不可能にまでがんじがらめにさせられて、という思いがどうしても、よぎるのです。他国は、状況の変化で身軽に何度も変えているのに、と。国家のために憲法があるのに、憲法のために国家があるごとき、憲法偏重はいかがなものかと。論理破綻は承知の、感情論であるのは自覚しつつ。
そこで、ふと思うのですが日本国憲法自体の違法論があるわけです。
相当の論拠を持ちながら。
明治憲法第 75 条に反してつくられた違法憲法説。ポツダム 宣言第 10 項後段に述べられている「日本人の言論、宗教及び思想の自由並びに・・・・」反して作られたという論法他複数。
日本国憲法自体の違憲性を問う、裁判をやったらどうなるのでしょうね。違憲により、こう損害を受けたという具体例がないと訴訟は成立せず却下となるわけですが、それは安保法制案反対論者の違憲訴訟とて同じこと。理屈と膏薬はどこにもつく、という諺ももはや死語か。