為末大氏が、スポーツ紙に以下を述べられています。
日本選手はなぜ謝るのか/為末大
http://rio.headlines.yahoo.co.jp/rio/hl?a=20160820-00000083-nksports-spo
抜粋
現役時代にはあまり気がつかなかったが、引退してからミックスゾーンにメディア側として立って、あらためて感じたのは日本選手のインタビューの特異さだ。成績が悪かった時のアメリカ選手が、自分なりの敗戦理由と次の目標を語るのに比べ、涙を流しながら「期待に応えられずに申し訳なかった」と謝罪し続ける選手を見ていて胸が苦しかった。
日本の選手のインタビューは似通っていると言われるが、私はその一端に、この謝罪の要求というのがあるのではないかと思う。負けた原因を分析したら言い訳と批判され、純粋な感覚を表現すれば負けたのにヘラヘラしていると言われる。選手にとっては競技をすることが一番大事だから、変なことで社会から反感を買いたくない。結局、一番問題が起きにくい謝罪一辺倒の受け答えになっていく。
抜粋ここまで
テレビで拝見する為末氏の談話は感じがよく、また五輪を体験した
経験者の言葉だし、また一つの正論ではあるので・・・・・
反論ではないのです。
ただ私の「好み」として、涙を浮かべ謝罪する日本人の魂を
嫌いではありません。
欧米の選手のように、「私」を主語に「分析」をとうとうと語られるより
万感の思いを込めた「すみません」が好きです。
日本人の稀有な特性の一つが、全体の中の一つの細胞として存在する
自分、という感性を持っていることかと思われます。
先の戦争では負けましたが、軍としての強さはダントツではないのかな、と
思ったりもするのです(戦争肯定論者ではありません。集団の中の一員という
自覚の有無を考えています)
豪雨で電車が止まった時の、整然たる静かな列や、災害時の静粛と
秩序正しさも、全体の中の一人が自分であるという感性があるから
だと思われます。
「私」より「私たち」という主語が先行するときも多いようです。
五輪も、国を背中に日の丸胸に、というメンタリティも嫌いではありません。
サッカーでゴールを決め「自分がヒーロー!」と叫んで、グラウンドを走り回った
韓国系の選手に違和感を覚えました。
もっともこれは、彼の先輩に当たるテレビ局の人にたまたま聞いたら
彼が「お前、ヒーローになれよ」と激励したから、彼は
それに答えたまでのことのようでした。事情を知れば、可愛いと
思ったのでしたが。
話が逸れましたが、皆の期待に添えなかった、すまない、と泣くそんな日本人が私は好きです。