「帝一の國」という映画を観てきました。
コミック原作らしいし、さほど期待もなしに出かけたのですが
これが、この間観て感心した「チアダン」に勝るとも劣らぬ青春群像劇なのでした。
シナリオ、演出共に欠点なく、出演者もよく上出来のB級映画です。
単なるコミカルな学園ものではなく、学園の生徒会長選にからめて
政治の世界への風刺ともなっていて、薄っぺらくありません。
チアダンもそうでしたが、若者言葉含め、感性とリズムみたいなものに
まるで抵抗感も無く、安心しました。
もうずっとこの調子なので、私はたぶんこの世を去る間際まで
青春オンタイムで共有できると思います。
仕事師としてのちよっと引いた目での観察というのはやるのですが、
しかしそれ以外は、高校生たちの速度と同じ速度で感覚は走れました。
これが現代なんだなあ、と思わせたのが(原作のコミックにあるのかどうか)
主人公の帝一には、定番幼馴染のガールフレンドがいるのですが、それと
並行して男の子の恋人もいて、それが奇異なふうでもなく
「別に」という感じで、普通に描かれているのが現代なのでしょう。
性がボーダレスになりつつあります。
帝一はガールフレンドより、ボーイフレンドのほうに実は心が惹かれていて、
それに対してガールフレンドが嫉妬し、帝一とボーイフレンドとが
いちゃついていると級友が「よそでやってくれ」などというシーンも
森田健作さんらが青春ものをやっていた時代には考えられないことですね。
チアダンでも感じたのですが、恋愛の要素はとても希薄。それも、
現代なのでしょう。
身を焦がすような恋など重たげなものは何もなく、異性、同性問わず
淡彩色の恋があるばかりです。
その代わり、不変なのは友情とか情熱とか連帯、若い正義感とか。
ただ、昔と違うのは主人公も決して、真っ白ではなく計算高かったり
「汚れ」の部分もちゃんと描いている点も現代です。
そして、これも昔と違うのは敵役にもそれなりのエクスキューズが
用意されていて、単純な悪としての描かれ方ではありません。
「映画には、“絵”としてのクライマックスを必ず置く」
と、私は亡き鈴木清順先生に、繰り返し教わりました。
帝一の國の映画の絵的クライマックスは、帝たちがふんどし一丁で
大太鼓を叩くシーンで、これは迫力があり、感動します。
役者が本意気で叩いていて、それが青春という束の間の
祭りを象徴しているようで、よいシーンでした。
それにしても、イケメン全員をふんどし一丁にして、
それが映像上のクライマックスたりえるというのも、いかにも
現代だと思われます。
昔なら、「男が集団ふんどしで太鼓叩いて何が面白い」
と映画会社では企画ボツだったでしょう。
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