「ト書き」というのは、脚本で俳優の動きや衣装、天候他セリフ以外に
「画面に映る」ものや、「カッとして」や「悲しげに」など、人物の感情表現を
指定するものです。
お世話になったプロデューサーさんが育てている新人作家さんの脚本を
読み、アドバイスすることが続きました。
日本のテレビドラマから絶えつつある「文芸もの」のドラマを志している人であるということもあるのですが、むしろ恩義のあるプロデューサーの「生徒」であることから、プロデューサーへの恩返しの一端としての、お付き合いです。
一度はプロデューサー氏を交えて会い、新人の原稿を前にレクチャーし、その新人がまた書いたと言うのですが、今月は会っている時間がないので、原稿をメール送信してもらい、その後スカイプで1時間延々講義したようなしだいです。
その中で、ト書きについて触れたのですが、このト書きというのは以前から
「簡潔なほうがよい」とされ、私もそれを墨守していた時期もあります。
向田邦子さんがセリフの連打でト書きが極度に少ない作家で、私もそれを理想としていました。セリフを読んでいるだけで、動きは自然に解るでしょ、という相手もプロであることを要求するプロの書き方です。
ただ、最近私は宗旨変えしていてト書きは書き込むべし、という意見で新人さんにもそれを伝えました。
なぜなら、スタッフも俳優も現場が素人化していることが多く、書き込まないと伝わらないことがあるのです。
いわゆる「ホンを読めない」人たちが多くなった。俳優がまだましで、優秀な人は皮膚感覚で正確に捉えてくれます。
私がほぼ決まった演出家としか付き合って来なかったのも、素人を避けたからです。ホンを読み込めない演出家と組むと大変なので。ドラマのみならず、どの現場にもプロになりきれない、あるいは向いていない素人というのは、いませんか?
脚本のセオリー通り、ト書きの極度に少ない向田邦子さんでしたがたまに書くト書きに文芸の匂いがありました。それも私にはお手本でした。
ト書き一つで作家の目指す世界観が伝わったのです。
私のセオリー破りには「まるで小説のような」ト書きを書くこともあります。
内館牧子が、目覚ましいト書きの例として、手掛けた朝のテレビ小説「いちばん太鼓」の脚本の一節を講義に取り上げることが、昔は多くありました。
芦屋雁之助さん演じる座長が地元のヤクザと渡り合うシーンのト書きに私は、「ギラリ、修羅の風が吹く」と書いたのです。
こんなト書きは、型破りです。どんな映像をもってしても「ギラリ、修羅の風邪が吹く」など描けないからです。
ただ、そのシーンの緊迫感を伝えたく、書いたのでした。
最近では「花嫁の父」で、向井理くん演じる丸(まる)と、貫地谷しほりさんの美音(みね)が初めて顔を合わせるシーンで、私はト書きにこう書きました。
《これが丸のファム・ファタールである美音との出逢いであった》
ファム・ファタールは仏語でFemme fatale、「運命の女」です。
これも、演者も演出はじめスタッフもどう具現化しようもないト書きですが、ただこれもシーンにみなぎるべき「出逢いの緊張感」を伝えたかった。どうぞ、そのように男の目の輝きを捉え、そして女をそのように美しく撮って欲しい、という・・・・・。
いずれにしても、文芸ものならではのト書きであり、刑事モノはサスペンスには不要のト書きです。
向井くんも、貫地谷さんも「ファム・ファタール」という言葉に初対面だったようです。
さて、その文芸ものを書ける作家が激減しています。場がないので新人も育たないのです。
ほそぼそとでも命脈をつなぐことが、私の使命でもあろうかとそう思っています。
ちなみに「ト書き」の意味は、《花子は、いいのよ、と言って泣く》の「と」から来ていて、昔は「ト」とカタカナ書きされていたのです。
井沢満「では皆さん、今日というかけがえのない一日を、大切にお過ごしください」ト、ブログの末尾に記す。
誤変換他、後ほど訂正致します。