《明日の君がもっと好き》も今夜オンエアされたら残すところ、あと1話となり
宣伝が多くなり恐縮です・・・・
WEB記事を今朝、二つ掲載していただいたとかでお知らせを頂いたので
御覧ください。
http://www.tvguide.or.jp/feature/specialinterview/20180303/02.html
https://news.biglobe.ne.jp/smart/amp/entertainment/0303/mnn_180303_8600841898.html
画像は、上記二つの記事からの拝借です。
上記以外に、単独で私を取材してくださったのが2つあり、そのお一人の
記者の方が「同窓会」にはまったのだとか、「バッドエンディングがあってもよいのでは」
というご意見で・・・・思えば「同窓会」も嵐という人物を最終回で「殺して」しまった
前科が私にはあり、そこから敷衍してのご意見だったのかもしれません・・・・
嵐の死に関しては、とりわけ監督から「助命嘆願」があったのですが、
当時ゲイヘイターがまだ世の中に蔓延していたこともあってのことですが、
ハッピーになったら許さないふうな風潮も感じての結末でした。
(ヘイトによる家の近くの公園であって、まださして年数が経ってない頃でした。
とりわけアメリカでは、それにまつわる殺人と暴力が席巻していた頃です)
しかし、今はバッドにしたことへの、淡い後悔があります。
当時、70歳代の視聴者の男性から長文のお手紙を頂戴し、
「私の結婚式の前夜に、自殺した後輩がなぜ死んだのか長いこと、その意味が
解らずにいましたが、このドラマでやっと彼の心が解りました」
という文面で、「これからその後輩と二人で旅した土地を巡り彼との
思いでを忍び、供養してきます」と文面は結ばれていました。
その方も、今はご高齢でひょっとして世外に旅立たれたかもしれませんが、書簡という
形で頂いた「心」を、私は永遠に忘れません。
作品がどなたかの心に届いたことを、胸に刻んでいます。
あれから20年が経ち、世の中は激変しました。今回のドラマでも性同一性障害の
娘に対して父親が「異常」という言葉を投げつけたら、それは局のコンプライアンスに
反する、とご注意を受けセリフを差し障りない言葉に置き換え・・・・時代は変わった、という思いを更に深くしたのでしたが、しかし「自分とは違うから」「世間の大多数とは異質の存在だから」という理由で
排斥する人たちが絶えたわけではありません。
テレビで一見活躍している人たちも「異形の者」一種のピエロとしての認知であり、必ずしも
市民権を得たかと言うと・・・・どうなのか、今ひとつ解りません。
私としては、数からいけばマイノリティであり、そして障害としてのバリアが高い同性間のほうが恋愛(の本質)を書きやすかったのです。そういえば今夜のオンエア会のサブタイトルが「忍ぶ恋」であり、これは「葉隠」からです。(サブタイトルのネーミングは、私ではありません)
「君の名は」という戦後の一時代を風靡した菊田一夫氏のラジオドラマを
NHKの朝のテレビ小説で取り上げた時、現代に恋愛に必須の障害と「会わない時間、連絡を取りあえす孤独に思いを積み上げ深める時間」がほとんどない現代に、恋物語を書くことの困難さを身をもって味わっていて、それゆえに同性間の愛を主題に選んだ、ということもあります。
制作サイド的諸条件も、その他にありましたが。当時の毀誉褒貶はただごとならず、しかし
歳月に洗われ今は「愛の物語」だと受け止める人が圧倒多数になっています。
長い時間を経ていまだファンでいてくださる人たちは、もともとベースに
好意があったから、でもあるのでしょうが。
私が単独で受けた取材で「バッドエンディングでもいい」というご意見の記者さんには
異論は唱えませんでしたが、それはとっさに考えがまとまらなかったからで・・・・
それからしばらく考えていたのですが、不特定多数が任意で見るテレビでの
バッドエンディングは避けたい、とこれは私の心情でしかありません。
バッドな結末は、お金を払って映画館に向かう人達に向けてなら、そうであっても
いいのではなかろうか、と。
ただ、書き始めた初期思っていたこと、ドラマというのは「祈り」の形でもあろうかと。
祈りとは、人間への大いなる肯定でありまたSOMETHIG GREATへの畏怖と信頼でもあります。
今度、その初心を思い出しました。
今回、激しい物語の仕組みの帰結に私が選んだのは結局、「恋」ではない「愛」で
あったと思います。
LOVEという輸入された言葉は、人類愛にも、親子の情愛にも、男女間の恋にも用いられ
それは、実は日本人の感性にそぐう言葉ではなかろうと思っています。
学者ではないので、うろ覚えによる誤認識であったなら申し訳ないのですが、
日本語にそもそも「愛」という言葉は・・・・概念はなかったような。
翻訳語であったような。
ドイツ人の靴職人オリーこと、オリバーとの飲食の席で私は気楽さもあり
「日本人はもともと”愛”という言葉を持ってはいなかった。なぜなら、愛は自然に
古神道の精神の中にあったから」といい加減な説明をしたのですが・・・・
しかし、”ほぼ”単一民族として狩猟自体も荒々しいものはなく、どこかで血縁である
もの同士が、温順な気候と豊富な水とに恵まれ農耕と魚介類の採取だけで生きて来られた。
そんな民族に少なくとも「憎悪」や「敵」への拮抗概念でもある「愛」はなかったのではなかった
のではないか、とも思いなされます。愛の反対語は無関心である、とそれはそれで見識です。
オリーはプロテスタントの信仰を捨てた人ですが、私も現在の宗教枠が人や世の中を
救うとは思っていません。どころか長く憎しみを生み続け対立、とそのための
争いは今なお絶えません。
古神道にその答があるのかもしれない、とオリーには語ったのですが、
現在の神道の世界は問題含みで、美しくはない現実があります。
組織として形成されたとたん、集金と位階が生じ対立が立ち現れます。
やまとの民が、日本の風土から以前に得た直感、古神道に立ち還るべき時代であるようにも
思われ、またそこに行き詰った世界を救うキーが潜んでいるかとも思われます。
それは「神道」などというネーミングが規定する狭い世界ではなく、もっと闊達で
平明で明るい精神への帰趨です。
ドラマから話が逸れました。
打ち上げで、俳優さんたちの挨拶が多く脚本へのオマージュであったことに、
各事務所の方たちが驚かれていた、と聞きましたが、私の本自体は
未熟で大したことはありませんが、それでも込めた「何か」をそれぞれの
役者さんたちが感じ取ってくださっているとしたら、冥利に尽きます。
言葉にすれば借り物で、正確ではないけれど役柄への、それを演じる俳優さんたちへの
愛があったからではないかと思われます。
思えば愛という言葉を面映さなしに使えるようになるまで、何十年の道のりを歩いて来ました。
観てくださっているあなたへも、尽きせぬ思いが溢れます。
ありがとうございます。
「明日の君がもっと好き」というタイトルから受けるイメージとは逆の
展開で書いてきて、今夜のオンエアもそうなのですが、最終話で
なぜこのタイトルにしたのか、解っていただけたら「伝わった」ということで
私の「作家心」は成仏します。
それにしても写真、油断していたらまた太って来ました。
5月にまた果樹園の中のホテルに執筆がてら、果物だけで暮らし、裸足で
土を踏みしめ歩きつつ10日間を暮らそうと目論んでいたのですが、
私原作のミュージカル見物のためのローマ行きと重なり、ファスティングどころか食べ物の宝庫へ足踏み入れてしまいます。
イタリア行きの前、5日間でもこもろうか・・・・とも考えていますが。
5月のローマもそそられますが、雲海を見下ろしつつ浸かる5月の温泉も
「おいで、おいで」してやまないのです。朝露に光る芝生を踏みしめ歩く感触も、
足裏に蘇ります。
誤変換他、後ほど。