僧籍にある某さんに対して、高須クリニックの院長が激越な言葉で批判したそうで
しかし、言葉は仮に過剰としても基礎は正論である部分もある。
私が何に驚いたかといって、コメント欄で初めて知ったことなのだがくだんの
僧籍にある御方が、最初は修道院を訪れ断られたから、仏門に入った
というくだり。
調べたら事実だったので、驚き呆れたのだった。
修道院というからには、おそらくカトリックか。
修道院があるのは、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会だが、ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除き修道院はない。この方、そういう細分も知らぬままではなかったのだろうか。修道院に断られ、いきなり仏門に走った節操のなさを見れば。
カトリックとプロテスタントでさえ、その立つ基盤は異なるのに、まして一神教から八百万の仏門への方向転換とは、要するに激しい情念に(もっと言えば色情のほむらに身を焦がし)耐えかねて遁走の場に、宗教を選ばれただけではないのだろうか。
それが悪いとは言わない。遁世の一理由ではある。しかし仏門の法衣をまとっての説法ということになると、その教義においていい加減過ぎないか。波乱に満ちた人生の経験者としての単なる「お話」ならいい。
しかし、それに神仏を持ち込むことの筋道の逸脱。
国会前でのデモは、市民運動家としてのそれであり宗教者として法衣をまとってのアジ演説はいかがなものか。
仏教徒にもさまざまの政治的立場あり、それらを分断するのが聖職者の務めではなかろう。
潔くない。
政治運動をなさりたければ、法衣を脱げばよろしい。
たまにだが、肉食らう者として肉食自体を批判する資格はないが、しかしながら仏教寺院で肉食を禁じ、いわゆる精進料理を食べてきたには理由がある。
肉は煩悩を掻き立てる。肉喰の人種はおおむね闘争的である。
酒もお神酒があるが、この方の場合訪問者に昼間から酒を旨いと勧め、大きな肉にかぶりつくその姿の見苦しさ。率直に言えば写真で拝見するそのお顔が澄んではいない。
食は人の精神も形作る。長く日本に肉喰の習慣はない。例外として猪鍋、狸鍋他が山里にあった程度。
肉の常食はなかった。
人間は他者の命を奪いながらしか生きては行けぬという、根源的業を背負っている。
その業をいささかでも減じるための方策が極端な形で言えば精進料理であり、明治期までの日本人の食生活が穏やかな日本人の気質を育んでも来た。
植物であれ他者の命を奪うことには他ならないが、しかし屠殺されるときの恐怖や肉体的痛みを伴う生き物は、避けたいのが本来の仏教者ではないのだろうか。
神道とて同じ。靖国神社には、戦で命を落とした鳩や犬、馬の像があり手厚く供養されている。
比較的、殺すことに恐怖も通点もない魚でさえ供養して来たのが日本人だ。
魚だけではない、針も包丁も、人形までも。
その日本人の根本的優しさを喪って、なんの仏門か。
敢えて政治的思想のみで反論するなら「殺し殺されるのが戦争です!」と叫ばれなくても、そんなもの
誰もが心得ている。
しかし避けようとしても避けられない戦争がある。
仕掛けられる戦争である。
軍備することと戦争をすることは等価ではない。戦争を避けるための軍備というのが
現代の構造であろうに。
折あらば侵略の隙をうかがっている近隣国に対して、どう対処せよというのか。
外交や話し合いが無力に等しいことは、チベット、ウィグルが証明しているであろうに。
政争体験者の戦争忌避の気持ちは理解する。心情として解かる。
しかし九条がさほど素晴らしいなら、なぜ日本だけしか持たぬのか。もう憲法成立以来72年も経っているのに。
九条ありて、なにゆえ竹島は奪われ、同胞がかくも拉致され戻って来ぬのか。尖閣と尖閣領空には
侵犯がひきもきらぬ。これをなぜ平和と呼べる?
軍靴の響きが聞こえると言うが、それは現実的には隣国からの軍靴であろうに。
武器使わぬ情報戦という戦争の真っ只中にいるというのに、僧衣をまとった身で何を
おっしゃっているのか。GHQの圧制下で成立した憲法には、日本弱体化の意図が潜む。
人生訓は構わぬ。しかしながら、それは法話でなどありはしない。戒律も守れぬ身でなんの
法話か。法衣を脱いでの人生相談なら、いい。その話に魅力があるからこそ、人は押し寄せるので
あろうし。
ただ押し寄せる衆生が、あの方がおっしゃるのだから特定秘密保護法案には反対だ、と思わせるなら
邪道であろう。
不倫のススメも構わぬ。不倫全部が杓子定規に悪いとも言わぬ。しかし三才のわが子を
年下の男との情欲に負けて捨て去ったその身を懺悔する心はないのか、浅ましい。
それを、口々に賛美してやまぬ人々も同類項なのか、お人好しなのか。
昔この方にお会いした時、仏教上の単純な質問をしたのだが、黙して答えぬ。
聞こえなかったのかと繰り返したが、なお黙している。
ああ、この方お勉強はなさっていないのだ、とその時思うと同時に
法衣もこの方にはファッションなのか、庵もアンアン、ノンノのグラビア映えする
舞台装置なのか、と感じたことを率直に述べておく。
私とて不勉強だが、その時の直感は外れてはいなかったのかもしれぬ。
文章の感性はある時期素晴らしく、初期中期の小説はいい。
誤変換他、後ほど