三船敏郎主演、黒澤明監督「静かなる決闘」(大映、1945年)を
観た。
1944年の、野戦病院で物語は始まる。手術の最中の明かりさえ
乏しい中でのオペシーン。頭上で燃えている明かりが
何なのか解らなかったのだが、電気ではない。
と細かいところに目が行ったのは、「慰安婦」を名乗る
老婆の一人が日本軍に「電気拷問」を受けたと
恥知らずな嘘を述べ立てているからだ。
強制の慰安婦などいた事実はないが、それにしても
日本の左派と韓国がでっち上げありもしない慰安婦問題は、
「米国が仲介して当時の岸田文雄外相と尹炳世外交部長官が記者会見で
最終的かつ不可逆的に解決したことを公式に宣言」して終了済み。
そもそも戦後補償問題は戦後20年目である1965年の日韓基本条約と
同時に締結された日韓請求権協定で完全に解決したものだ。
いつまでも、日本は韓国の約束反故に引きずられてはならない。
慰安婦合意と基本条約の存在は、教科書でさえ教えるべき筋合いのことである。
あちらはどうせ教えはしない。だからこそ、我が国の子どもたちには、
きちんと教え込むべきであろう。
「静かなる決闘」は、同じ三船・黒澤コンビで後の「赤ひげ」に
つながっていると思う。
黒澤に関しては、「偉大なアルチザンだが、アーチストではない」という
三島由紀夫の評が的確であろう。
そのシナリオの巧みさ、映像の精錬度の高さに唸りながらも、
芸術的感興を覚えたことは絶えてない。
これは黒澤映画への貶めではない。完璧な職人を志す監督に、
芸術への指向はなかった。
と書きながらアートであった作品が皆無かと言えば
そうでもないなと思ったのは「羅生門」という傑作の存在を
思い出したからだ。
思うに、作品の持つ芸術性は監督が女性性の側面を
持たねば生まれない。黒澤監督は極めて男性性の
勝った方であり、映画における人物は概ね
男性に焦点が当てられていて、女性はほぼ常に
脇にいる。
映画における慰安婦は東宝映画「独立愚連隊」で取り上げていて、当時は
慰安婦など日韓で問題にされてもいない時代の映画で、
娯楽作品だが、娯楽作品であるからこそ政治的意図よるプロパガンダは
皆無、時代背景として普通に事実が描写されていて、
やれ慰安婦狩りの年端も行かない少女の連行のと片鱗もありはしなかった。
生前可愛がっていただいた鈴木清順監督の「春婦伝」における
慰安婦は威張っていて、新兵など顎の先で使っていた。
清順監督には「肉体の門」リメイクのシナリオを
依頼されたが、企画は成就せず私が書くこともなく終わり、
監督とは俳優さんとしてのみのお付き合いで、
ついに監督とライターとしての仕事はないままである
話が脇に逸れたが、強制的に駆り集められた慰安婦など
いはしない。いたのは、募集に応じた日本人を含めた娼婦たちだ。
中に少数、韓国内で韓国人の女衒に騙されたり、親に
売り飛ばされた少数例があったのみである。
「独立愚連隊」の岡本喜八監督にはあるパーティで
隣り合わせの席にいたのだが、その当時
慰安婦問題など関心もないころで、とりわけ
それについてお話もしていない。
もっとも、岡本監督も話を持ち出したところで、
きょとんとなさっただけのことであろう。
日本国内で、左派がないところに煙を立てるまで慰安婦問題そのものが
存在していなかった。