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Channel: 井沢満ブログ
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ボヘミアン・ラプソディ“胸アツ”応援上映

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いかに感銘を受けたとて、2度続けて同じ映画を
観ることは私はない。

ところが、何か観るべき映画がないかとラインアップを
眺めていたら目に飛び込んで来たのが「ボヘミアン・ラプソディ“胸アツ”応援上映」の
文字だ。

即座に行こうと思いたち、不得手なパソコン操作に難儀しながら
座席を確保した、というのも映画より今度は観客席を
見てみたかった。

観客席でQueenファンたちがペンライトを揺らし歓声を上げている
特別上映の様子をテレビで観ていて、あれを体験してみたかった。

映画それ自体は、1回目で見逃した細部を確かめつつ、後はなるべく
字幕に頼らず英語のヒアリングの勉強のつもりで出かけたのだった。

ところが、映画は1回目の時より更に胸に迫り、
観客席を観るより、スクリーンに釘づけで2時間が
一瞬に過ぎた。Queenの楽曲に支えられながら、
しかし映画それ自体としての質が高いのだ。

見逃していた細部はほぼなかった。唯一、最初流れる
楽曲で「愛を求める孤独な流浪者」であったフレディ・マーキュリーの
心象、それは映画のテーマでもあるのだがのっけに
提示されていたことに気づいたぐらいだ。
彼の音楽の根っこに実はオペラという古典がないか、と
これは1回目にも感じたことだ。

1回目は、字幕を見ることに追われてじっくり
観察することが出来なかった役者の表情が
更に見えた。役者もなべて、いい。実在の人物たちを
よく外見にも写し、まるでドキュメントのように
実在していた。

観客席にテレビで観たほどの賑わいはなかったが、
それでもスクリーンの歌に合わせて歌い、手を振り
打ち鳴らす若者グループが隣にいた。
フレディは日本を愛し、日本人もまた彼を愛した。

巷間絶賛されているラストの20分間、最初私は
涙が出るほどでもなくただ圧倒され息を呑んでいたのだが、
今回は涙が滲み、それは2度観たことの余裕であったのかもしれない。

客席の若者たちは間もなく終わる命と知ったフレディの絶唱に
手を振り私も、最初は真似して手を叩いていたのだがその手が自然に
合掌の形になっていた。供養のつもりであった。
しかし、感じたのは光である。フレディ・マーキュリーは光の
中にいた。

ゲイとしての差別と浴びせられる侮辱にのた打ちながら、しかしこの人生は
苦しむことにも意義がある。それは人の心を深くする。
魂を絞り出すような楽曲も、だから生まれた。
音楽で彼は背負わされた負を乗り越えた。
富と名声を得てそのことに感謝しつつ、しかしそこに
至り維持することの艱難辛苦を彼は歌った。
得ても得ても満たされず、何と寂しい苦しい虚しい人生。
愛したい愛されたい父親は、憎悪の対象でしかない。
アルコールで苦しみを麻痺させながら、フレディは生き続ける。
世界中から愛されながら、しかしたった一人の人の愛に飢(かつ)えていた
フレディは、しかしこの世を去る間際にその愛を得た。
彼がこの世に生まれ来た意味と役目、つまり音楽を達成するかたわら、
最後になって父との抱擁、そして渇仰していた
一人の愛をも得て、思えば彼は勝者であった。

早逝は悲劇ではない。人生は長さではなく質だからだ。彼の魂は
燃焼の頂点でこの世を去ることを選んだ。供養しながら
感知したのは、だから光だった。

その星の名もろくに知らぬまま、半世紀を経て東洋の日本の
片隅に住む私という人間の胸に、その星はまっすぐな光を届けてくれたのだった。

 


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