若者を相手にしたラブコメディと「私はマリア・カラス」を
見てきた。
前者はひょっとしてそうかな、とは半ば予期はしていたのだが
二次元のコミックを三次元の映画に立ち上げるのは、脚本でに相当の手腕がないと
ムリである。その点「銀魂」には感心したのだったが。ひょっとしたら
漫画原作自体が突出していたのだろうか。
ただ、若い役者たちが初々しく、それを救いにとにかく最後まで観た。
「私はマリア・カラス」は劇映画だと思いこんでいたのだが、
この天から声を与えられたディーバ(歌姫)のドキュメントだった。
夫との確執の末に、ギリシャの海運王アリストテレス・オナシスと結ばれるのだが、
そのオナシスは、ケネディの未亡人であるジャクリーヌと唐突に結婚をし、
カラスはそれを新聞で知る。
9年間の愛の結末。
映画では、マリアがオナシスの裏切りをまだ知らぬ頃の恋文が
朗読され、画面にはジャクリーヌとオナシスの蜜月が映し出される
残酷さ。
しかし、マリアは崩折れながらも「オナシスはいずれ私をまた
必要とする」と言い放つ。
その言葉通りオナシスはカラスの元に戻ってくる。が、死期がオナシスには
迫っていた。
カラス自身も50代半ばに満たずこの世を去る。
しかし、フレディ・マーキュリーもそうだが、人生は長さではない。
フレディもカラスも人の5倍の速度と密度で人生を駆け終えて
唐突に去った。そして映画で再び蘇った。
カラスの圧倒的なベルカントに聴き入りつつ、私は一方で
フレディの歌声を恋しがっていた。
やはり、病だ。
マリアの公演先が東京を含めて写し出され、ローマでの光景も
あり、人々の歓声とフラッシュが浴びせられる画面で
5月に私が思いがけず体験したあの時の人々の熱狂を
思い出していた。
世界的人気のディーバとは違い、裏方である物書きが
あんな華々しさを体験するケースはレアであろうかと思われる。
それを一瞬でも味あわせてくれたローマと、私の綴った
物語を熱く愛してくださったイタリアの人々に
とても感謝している。
一瞬私が幻のように味わったあの、注目と降り注がれる愛と、
それを日常で繰り返されていたら、そりゃあ人生も
短くなるだろうとも思うのだ。祭りは本来、一瞬のものだ。
日毎に打ち上げられる花火が延々と続くわけもない。