本日は断食デーとして、お白湯だけで過ごしている。
このところ断食もなおざりにしていたのだが、旧友から
送られて来た著書に触発された。
改めて読み返しているが、こういう地点まで来たかと
彼の精神遍歴が感慨深かった。50年前の文系大学生の
常で私も彼も実存主義の著作に触れていたが、二人共
そこに踏みとどまらず幸いであった。そこに
神はいず、人生には意味もない。しかし、神も意味も見出さぬまま、
平然と生き、死んでいく人達は大勢いる。
圧倒的無意味に耐えられない人のみが、道を求め続ける。
フリードリヒ・ニーチェの言う「神は死んだ」はキリスト教における
神であり、神への壮絶な決別宣言である。日本人の
メンタリティで字面だけを読むと本質を見失う。
神を見失ったニーチェは狂い死ぬのだがその当時、
彼が日本の神道を見出していたら、神と決別したからといって
そこまで追い詰められはしなかったろうと思われる。
友の著作の中には、私が彼のその後の人生における水先案内人だったと
書いてあるが私は、当時私が関心を抱いた本を数冊紹介したに
過ぎない。いいかげんにアプローチしただけの私とは違い、彼の思索は
50年という歳月を費やして、深い。著書の中、精神的旅の
途中で出会った人々について書かれているが、その中には私も
関わりを持った人達もいる。
エドガー・ケイシーへの関心は共通だったが、
シュタイナーについては、何度も耳にしながら私はスルーして来たが
友人は研究したようだ。私は思索において、突き詰めた彼とは
異なり浮薄であったのかもしれない。キルケゴールも
ドストエフスキーも知らず、サルトルすらまともに読んだことがない。
カミユだけはかろうじて読んだ。
白湯だけで過ごす一日、読書には打ってつけなのだが、
映画館で電話をマナーモードにしたのを元に戻さずに
いたので、鳴ったのに気づかず留守電は三田佳子さんからだった。
次の食事へのお誘いで、断食日にこれが来るかと面白かった。
数日間続行してもいいぐらいミニ断食は平気なのだが、近いうち
別口の会食があるので、いきなりの復食は危険である。
いずれ10日間、食断ちしてこもろうと思う。果物だけで
10日間過ごしたことはあるが、白湯だけの断食はまだやったことがない。
断食を間欠的に暮らしに入れ込みながら、いずれ不食と思い定めたつもりが、
いつしかいいかげんになっている。