大相撲に関しては、日本の神事・伝統という観点からしか
関心がなく、だから横綱曙のその後の人生を
私は知らずにいた。
曙さん(という呼び方がふさわしいのかどうか知らないが)
現在病院でリハビリ生活、車椅子の身であることを昨夜の
テレビで知って驚いたのだった。
というのも、私はこの方と一室でたまたま二人きりでいた
ことがあるので、単に「元横綱が」ということではなく
僅かながら個人的ご縁があったからだ。
曙さんが横綱として威風堂々として存在していた頃、
私はフジテレビで朝の番組にコメンテーターとして
顔を出していて、ある回のゲストが曙さんだったのだ。
そして控室が一緒だった。
相撲を知らない私は話題もなく、あちらは私が
何者かも知らず、気詰まりな沈黙に曙さんが
部屋を出て行って、再び顔を合わせたのは
生放送の本番中のスタジオだった。
相撲を日本の神事としての伝統でしか捉えていない私は
ろくなコメントも出せず終わったのだが、当時の
曙さんの、世にときめいている人の華やぎと威風堂々とした
存在感は記憶に鮮明である。だから病室のベッドに
横たわる曙さんの姿に胸をつかれたのだった。
芸能界で栄光の頂点にあった人の唐突な転落は
身近に複数見知っているが、その後プロレスに転向したという
人が(私にとっては)いきなり病室のベッドにある姿に、
胸をつかれたのだった。
かつて「外科医 有森冴子」というシリーズを書いている時
その中で冴子のセリフとして「人生、光と影で出来ているのに、
若い頃は光しか見えないのよ」と書いた。
光と影がないまぜになっての人生であるならば、その影の
ほうにも何か意味があることかもしれない、と最近は
思うようになった。魂の成長という意味で。
人が学ぶのは栄光の頂点にあってではない、その光が
失せた時である。
名声も富も地位も、死という圧倒的存在の前では夢まぼろしであり、
魂に何を刻んでこの世を過ごしたか、それしかあの世に
持っていけるものはない。