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秀吉の朝鮮出兵

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秀吉の朝鮮出兵について、基礎的誤解が国民にかなりあるようなので書いて置こうと思いつつ、時間がかかりそうなのでそのうちと思いつつ日延べ。

箇条書き的にでも今書いておいたほうがよさそうだ。

高校時代、日本史の点はよいほうでだから先生に目をかけて頂いた。染谷先生という軍隊経験のある苦みばしったいい男だったが、この先生が定期的に私を指名して答えさせるのが「日本国憲法はGHQの押し付け憲法なので、日本は自主憲法を持つべきです」ということで、私は実のところ何が何だか解らぬまま、染谷先生の言い分をクラスの皆の前で述べていたに過ぎない。
すると先生は「そうだっ!!」と合いの手を入れ、いわば私と先生の小さな儀式が授業中に行われていたのだった。

私は今、自分の意見としてGHQが日本弱体化のために押し付けた憲法など、後生大事に保持していてはいけない、と主張している。そのたびに先生の「そうだっ!!」という声がどこかから聞こえて来る。50年前の先生の言葉をやっと理解しているのだが、先生が折りに触れ私に向かって答えさせた教育法は正解だったのだろう。今思うと、クラスの全員に聞かせると言うよりは私に、託し続けていたという気がしないでもない。

ただ日本史が得意と言っても暗記するのが得意で、ただテストの点数がよかったというに過ぎない。西洋史と結びつけて学ぶ視点など、持ち合わせてもいない頃で秀吉の出兵など教科書にどう書いてあったかすら忘れている。

秀吉の朝鮮出兵が西洋史と並べないと真相が見えて来ない、と思い至ったのは近年のことである。お恥ずかしい話である。

韓国で嫌悪されている日本史上の人物は秀吉がそのトップであろう。文禄・慶長の役で「朝鮮に攻め込んだから」というのがその理由である。

だから文禄慶長の役で秀吉軍を相手に海将として戦った李舜臣が英雄と讃えられているのだが、この男残念ながら秀吉軍には歯が立たず敗退、露梁海戦では、明国と朝鮮の連合軍の指揮を執ったものの、日本軍に無造作にやっつけられ戦死しているのである。

かくのごとき顛末なのに、韓国の歴史ファンタジーはいまだ彼を英雄の座に祭り上げ、秀吉憎しと怨嗟の声を上げ続けているのだ。ご苦労なことだ。願望は歴史ではない、と言っても彼らに聞く耳はない。

秀吉の時代は、各藩がそれぞれ独立した国家ともいうべきものを営んでいたので、秀吉の出兵に納得出来る理由がなければ大名たちが唯々諾々と応じたはずはない、ということをまず押さえておきたい。

秀吉の旗振りに大名たちが立ち上がったのは、当時世界を制覇しようとしていたスペイン王の脅威に対する危機感を、秀吉と共有していたからである。実に世界の80%がスペインの植民地になっていた時であり、日本が狙われるのも時間の問題だった。

そうでなければ日本国内、各藩がそれなりに豊かな暮らしを築いている時に何も、16万もの大群を朝鮮半島に遣ることはなかったのだ。朝鮮と明国の連合軍は、25万の大軍。単なる「侵略」でこんなリスキーな戦いに積極的に乗り出しはしない。真の戦いの相手は朝鮮を飛び越えた明であり、更にスペインだった。

スペインは、東亜地域ルソン(フィリピン)に総督府を置き、東亜でスペインの手により蹂躙されていなかったのは、明国と日本だけであった、という時代背景を心得ておきたい。

当時の宣教師は布教伝導を表看板に実体は、僧兵軍団の長である。とその前にカトリックとプロテスタントの分裂と紛争を前提として述べねばならぬが、いずれかの折に。

口当たりのいい耶蘇教を猫なで声でささやきながら、彼らは日本国民を取り込みつつ改修させ、頃合いよしと踏んだ時、軍隊を祖国から招き入れ強奪、殺人・・・という手筈のはずだった。南米でのやり口である。南米でスペイン語が多く公用語として使用されているのは、その背後に負の歴史がある。国語を奪われるということが植民地化の第一歩である、とこれは普段から私の主張しているところ。

彼らの日本での目論見が、他国と異なって成就しなかったのは日本人の優秀さからであり鉄砲を持ち込まれると、またたくまにそれを複製、日本の鉄砲の保持数は世界でもトップになるという、スペイン人には驚天動地のの成り行き。
イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらがスペイン国王にあたふたと書簡を送ったのだった。

国王陛下が日本の君主になられることは多とすべきだが、日本人は賢すぎて懐柔が難しく、軍事力も今や我々を凌ぎますぞ、と。

そこで、宣教師たちはキリスト教を用いて更なる懐柔作戦を繰り広げるわけだ。明の属国であった朝鮮は彼らの視野の外である。明国を手に入れれば、朝鮮はおまけでついてくるのだから。

さて日本侮りがたしと見たスペインは、日本にタッグを組んで明をやっつけようぜ、と持ちかけるのだが秀吉も大名たちも日本の治安回復と安定に関心のほとんどが向いていて、スペインの持ちかけには応じず。まずは国内が大事、明くんだりに出かける暇はねーよ、というそっけない反応。

そして日本は、秀吉が天下統一、治安も回復、太平の世になったゆとりで、ふと周囲を見渡せば、何ともきな臭い明の存在。虎視眈々と日本を狙うスペインは後回し先に明を叩いておこうぜ、というのが朝鮮出兵であり秀吉の視線が向いていたのはその時点では半島ではなく明、そしてその先のスペインだった。

が、海の要塞に護られた日本列島にスペイン人が乗り込んで来るのは、数の上で大軍は無理、しかし明がスペインの植民地とされるリスクは多大にあり、スペイン取り混ぜて侵攻の危惧あり、ならばまず明を潰しておこう、という発想である。

朝鮮半島を防衛ラインとして位置づけたのは、帝政ロシアの南下政策に対抗した時と同じ発想だろう。この時点でスペインは英国との戦に破れかつての栄光に限りがあるのを秀吉は無論計算に入れていたであろう。

秀吉は国内での刀狩りを行い、武力衝突を封じ込めたのだが、それは取りも直さず、日本の戦力の低下であり、戦力がまだあるうちに明を支配下に置こうと企む。侵略が一義ではなく安全保障の確保である。そして二度に渡る、明の「庭先」「玄関口」としての朝鮮に二度に渡って派兵、という段取りとなる。

かたわら、無敵艦隊の栄光が墜落したスペインには「臣下の礼を取れ」と秀吉は強気の要求。当時のスペインに逆らうだけではなく家来になれ、と要求。さすが百姓からのし上がって天下人となった秀吉の気宇壮大。その勢いのまま決行されたのが、第一回目の朝鮮出兵であった。

・・・・書き続けるのに、くたびれて来た。そろそろ終わりにしたい。

スペイン国王は、まず僧衣の尖兵としての宣教師を送り込み、(味方である)キリシタンが増えるとそれを内在兵として用意しつつ、軍隊を送り込み伝導地を制服。これがセオリーであったことを記憶しておきたい。

いずれ余力のある時に続きを書き継ぐとして・・・・一気に結論に行けば秀吉が朝鮮出兵というパーフォーマンスで力と気概を見せつけなければ、スペインは、明国を植民地としての支配下に置き、朝鮮半島もスペインの支配地となっていた可能性が大きい。

スペインの侵略が仮借ないことは、歴史を見れば一目瞭然。民族は殺され絶滅する。

よって、韓国の人々はそれを防いでくれた秀吉に感謝すべし。

 

・・・・・末尾の啖呵を切りたくて、縷々書いたようなものだがスコセッシの映画「沈黙」に感動した身であれば、宗教的見地からのアプローチで見れば少しく異なった風景が見えるであろうことは承知。ただ一国の力対力という関係で読み解けばあらまし以上である。当時の概念で「平等」はない。奴隷になって食い尽くされるか、自らが支配するかの二択であった。

拙稿は「こういう見方もある」程度に受け取って頂ければ幸い。




 


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