おそらく誰もがその時が迫っているのを感じていて、しかし誰もがその時が早すぎたと感じているだろうと思います。助走期間もなく、不意打ちで逝かれたような思いが致します。
私は自身が、生きていることに執着薄く、この世はなるべくならショートカットで終えたいものだと、思い続けながら今までべんべんと生きながらえて来た者なので、そのせいか人様の逝去に比較的淡々としているほうで、場合によったらこれは口には出来ないが、厭離穢土と申すこの世の軛(くびき)から開放され、よかったなぁと思うような人間です。
その私が、川島さんの逝去を無残に感じるのはなぜなのか、解りません。
仕事をご一緒したこともなく、狭い芸能界なので見かけたことだけはある、という人も多いのですが、それすら川島さんにはありません。
川島さんの生きたいという思いを、アンテナがキャッチするせいなのか、とらちもない事を考えてみたりします。
川島さんが可愛がっていらしたわんちゃんたちが、どうするんだろうな、とそこに頭が行きます。ひょっとしたら、それが気がかりなのかもしれません。
向田邦子さんが飛行機事故で亡くなられた時も、とっさに脳裏をよぎったのは、溺愛していらした猫ちゃんがつらいだろうなあ、ということでした。
あの世にいる飼い犬たちとふしぎなコンタクトしたことがあるので、おそらく愛犬愛猫にはいずれ次元の異なる世界で再会できるであろうと、これもらちもなく期待しているのですが・・・・・。
こんな駄文がいささかの追悼にもなりはしないと思いつつも、ご冥福をお祈り申し上げます。愛犬たちといずれ再会できますように。
余談ですが、厭離穢土という言葉が変換出来ません。「おんりえど」と読みますが、今は高校の日本史で習いませんか?
厭離穢土欣求浄土と対で使います。「おんりえど ごんぐじょうど」
欣求浄土は一発変換出来たのに、なぜ厭離穢土が出来ないのでしょうね。
・・・・・・と、いぶかしかったのですが厭離は「えんり」という読み方もあるのですね。私は高校時代に「おんり」と教わってから、ずっとそれが定着していました。
「えんり」として変換したら一発です。
ついでに、厭離穢土の意味を念のため。
苦ばかりが多い穢れたこの世を厭(いと)い離れることを願いつつ、心から欣(よろこ)んで平和な極楽 浄土を冀(こいねが)うことです。 平安中期の高僧源信(恵心僧都)が著した「往生要集」 の中の言葉だというのは、記憶から抜け落ちていました。
しかし、この世を穢土と思わぬ感性の人もいっぱいいそうです。
川島さんにとっては、生きるに値する浄土であったのかもしれません。
それはそれで、その意味ではお幸せなことではありました。
それゆえに離れたくない思いが募ったのでしょうから、お幸せは不適切な言葉かもしれませんが。
それにしても、誕生より死が人に多くのメッセージを伝えてくるのはなぜでしょうか。死にはそこまで生きてきた時間の重さがあるからでしょうか。
生まれたての赤ん坊の存在に歴史はなくただ、未来という空白があるのみです。