Amazonに、もう告知があると聞いて覗いて見たら・・・・・
表紙が2種類ある。
たぶん、俳優陣が載っているのがオンエア日まで使われ、
イラストが放送日以降に使われるのだと思う。
二種類というより、最初のが帯なのか?
上記の写真撮影時には、私もスタジオにいた。
全てのシーンを撮り終えた直後だったと思う。
情報解禁と同時に、あちこち記事と画像がいっせいに出回ったようだ。
家族感が良く出ているように思う。
小説 後書きより
「たとえば、あとがき的な?」
「今回は小説は書かないんですか?」
と、向井理君に訊かれた。「今回は」と言うのは、やはり彼と組んだドラマ「花嫁の父」(2012年MBS制作TBS系)では小説(「ゆきの、おと」講談社)を出したからだ。「どうしようかなあ」と向井君には答えたのだったが、このたび出版の運びとなった。
「花嫁の父」では、聾唖の女性をひたむきに愛する、素朴で寡黙な青年を演じてもらった。雪が降りしきる中、ヒロインへの求愛のシーンでは、少年期が消え去る間際の、清潔で儚い輝きを見せて貰った。
滅びがあるから、命は美しい。永遠ではないから、つかの間の若さが愛おしい。移ろう時間を仕留めて、あたかも蝶の標本にしたような映像に仕上がり、向井理をこれほどきれいに撮った映像は他にないと私は思う。
それから三年が経ち、すっかり大人になった向井君の新しい一面をどうやって引き出すか、それが私に与えられた課題だった。制作側は「父と息子」をやりたいと言い、私は即座に菊池寛の「父帰る」の現代版をやろうと思った。家出して長年消息不明だった父親がある日突然舞い戻り、家族に一波乱が起きる。
現代でどう描こうかと考えつつ、ドラマのプロデューサーであり監督である竹園元さんと取材に出かけた。その帰りの電車で読んだ週刊誌に「人のレンタル」の記事があった。便利屋の発展形みたいな商売で、父親役や恋人役など、人を需要に応じて派遣するのである。
向井君の仕事をそれに、と思ったとたん、コミカルなトーンで話がはじけた。父親不在の家で育った向井君は、仕事として家族を演じながら、家族とはなんだろう、と考えざるを得ない。
向井君の母親役を演って頂いた田中裕子さん主演で昔ドラマを書いたことがあり、作品は国内外の賞を頂き、田中さんはモンテカルロ国際テレビ祭で主演女優賞を獲得した。田中さんの職業をその頃走りであった便利屋のスタッフにして、擬似家族の話であった。今回のドラマの発想の根っこにはそれも、あったのかもしれない。田中さんとは、三十年ぶりぐらいの再会である。社会からドロップアウトして便利屋のスタッフになった若いOLを演じて頂いた田中さんに、老い始めた母親役を演って頂く。時は飛ぶような速さで過ぎ去った。
人生はつかの間の幻。そういう私の感慨を託したのが、長塚京三さん演じる父親である。「シノプシス(あら筋)を読んだ段階で出演を快諾頂いた。何を面白いと思って下さったのか、お会いして言葉は交わしているのに、お聞きしていない。初めてのお付き合いである。スタジオの片隅で、演じるのを拝見していたら、飄々(ひょうひょう)と洒脱なのに、一瞬息を止めて見入るような凄みを見せていらした。
スタジオの外の椅子に腰を下ろしていると、出番を終えた役者さん達が通りかかる。
「なんで、若い子の言葉が書けるんですか?」と話しかけてくれたのは、向井君の妹を演じてくれた村川絵梨ちゃんであり、これは私には最大級の褒め言葉であった。「せりふが自然なんで毎日現場に来るのが楽しい!」と手放しで言ってくれる絵梨ちゃんの髪に天使の輪が揺れていて、小説での妹の描写のヒントを貰った。兄妹が足を蹴り合ってケンカするくだりがあるのだが、「激しくやりましたよぉ」と嬉しそうであった。
ロケが多い作品だが、一家が住む「わが家」はスタジオにセットが組まれた。画面には映らない細部まで丹念に仕上げてあり、脚本を書いている間、このくらいの細部が脳裏に浮かばぬうちは、まだまだだなと思った。
小説版では向井君に、ハリウッドの古典ミュージカルのタップを踏ませているが、脚本には書いてない。後で思いつき、竹園さんにメールを出した。それきり、忘れていたのだが、「『雨に唄えば』をやりましたよ」と、向井君が休憩室の長椅子でボソリと言った。私はそのロケに立ち会ってはいない。兄妹ゲンカのシーンと共に、楽しみである。
向井君の女友達役のセリフに「意地を張るのも男だけど、頭の下げどころを知っているほうが、もっと男だよ」というのがあるのだが「これを言う女は、いい女です」とまた、向井君がボソリと言った。役として言っているのか、素顔の彼の発言なのか、まだスタジオでの劇の雰囲気を引きずっている彼の言葉は、判断がつかなかった。