ごくごく控えめに、知り得たことのほんの一端をしか書いていないのだが、
身近な人間にはお願いだから用心してくれ、自分だけの命じゃないのだから、
と哀願されるし・・・・・読者の方々からも、再三再四ご注意を受けている。
面白いもので、というのは語弊があるが、たとえば石田純一さん的政治参加と発言に危険は伴わない。
危ないのは石田さん的意見に反対の、私のような者の発言である。
今の日本では右翼とみなされるそれである。私は至って「真ん中」の考え方をすると思っているが、世の中の基準は違うらしい。
というわけで、差し障りのない話にギアチェンジしているのだが、こんなんで
読んでいる人たちが面白いのかしらん。
「命は棄ててもいいんです。でも痛いのは嫌だけど」とテレビ局の方に漏らしたら、
「殺されるときは痛いんです」と、真顔で忠告された。
しがない脚本家が言うべき分野でないことは承知しているのだが、調べ学んでいるうち、おこがましいが(あ、これ掴んだの日本でたぶん自分だけ)と、たまにはそう感じてゾワッとすることもある。それなら発信の義務があるのではなかろうかとも思い。
そのエネルギーを本来の仕事に振り向けるほうが世のためなのか、と自問自答しつつ。
ぶきっちょで、2つのことがやれない。政治外交歴史を調べ始めたらほぼそれ一色で、歌うべき歌を忘れ果ててしまう。配分よく時間とエネルギーを振り分けるということが出来ないのだ。
文部省唱歌があまり歌われてないのが、日本語保全の見地からも残念で
私が文部科学大臣をもし10年間やらせていただけるなら、唱歌の復活、
和歌俳句の暗証を定着させ、日本語への意識を涵養させたい。
英語など二の次でよろしい。まずは日本語である。
唱歌の著作権は失せていると思うので記載する。
西条八十という私の一番好きな詩人の作品である。
童謡「かなりあ」
歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
埋けるは、もはや死語であろうが「いける」と読み、火鉢の灰に炭火を置くこと。
またはものを埋めることであり、歌では後者である。
脚本や小説を書くことを忘れた私というカナリヤはうしろの山に捨てられるのか、柳の鞭で叩かれるのか。
八十は「カナリア」という表記だが、そちらのほうが詩の言葉にはふさわしいが、私の語感は「カナリヤ」で定着してしまっている。調べてないので断言はできないのだが、表題を「かなりあ」とひらがな書きして、詩本体では「カナリヤ」と片仮名にしたのは、八十の感性なのであろうか。
もし自分の天命が政治や外交にまつわる真実を告げることであるならば、ノンフィクションを書くことは捨てて残りの命は挙げてドキュメントの道と、ささやかな政治活動に邁進か、との思いが脳裏をよぎったことはあるが、おのれの心に率直に向かい合うと、「歌をうたう。歌うことがおまえのつとめ」と返って来る。
命尽きるまで歌を歌っていようと思う。
それにしても・・・・
歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
とは何と美しいフレーズであろうか。
詩人西条八十。私の聞いた話が事実であれば、投機に夢中になった西条八十が、詩作を忘れていることに気づき、作った歌と、伝えられている。
柳の鞭を小鳥の背中に当てる、という語感の残酷さは八十のおのれへの
叱咤であったろう。
物語を歌うことがしょせんは私の天命だと思う。が・・・・・
多分世の中で私一人が知り得たこと、は何らかの形でお伝えせねば
ならぬのであろうか。自分だけが独自に知り得たということは、伝えよという天の意志でもあるような気もして、惑うのである。
個人としての人生はもう十二分に生きた。おのれ以外のことに命を使いたい。