高倉健さんの著書「あなたに褒められたくて」の書評は、とっくに書き上げたが、
何しろ字数をさほど頂いている原稿ではないので、書きたいことの十分の一も
入らない。
あれを書き加え、これを消し、丹念に文章を磨いている最中である・・・・
というのは、書評は健さんへの詫び状でもあれば、恋文でもあるからだ。
詫びというのは、せっかく声をかけてくださったのに、そっけなく
お断りした自分の、輝かしいまでの若さと馬鹿さに対して。
恋文は、著書を読んで初めて健さんの肉声に触れた思いで、
こういう繊細な人だったのか、だったら脚本を書けたのに・・・・
という悔いか恋心かわからぬ感情である。
いつも同じ表情の、「男」を演じている人という認識しか
私にはなかったのである。早計だった。
同じパターンを演じ続ける役者の仮面のその奥の素顔に
今なら気づくのに、何しろ私は若かった。
今、任侠ものを初めてDVDを見てもさして、面白いとも思えぬ。
時代の熱気の後押しがない。
が、当時なぜ男たちが、そして女たちが熱く健さんを見つめたのかは
よく分かる。
理不尽な状況に耐えに耐え、ついに切れた健さんは女房を置き去りに
寒風に向かい、白刃をひっ掴み独り敵陣に乗り込むのである。
当時のスタジオは寒かったのだろう、吐く息もリアルに白くいい感じ。
スラリとした長身の着流しに、素足につっかけた雪駄。
そこに歌が流れる。「オレがやらねば、誰がやる」。
待ってました! 健さんっ、と声を掛けたくなる気持ちもわからぬではない。
たとえば土曜日のオールナイトの映画館。あの当時は映画館にも
煙草の煙が充満していた。煙の向こうの健さん。
とにかく、男っぽい。だが作られた冷静な計算ずくの男っぽさ。
それが凄い、と今にして解るのだ。
半世紀に一人、出るか出ないほどの役者であろう。
実生活では寡黙ではなく、気に入った人間には饒舌であると聞く。
私がお会いして気に入っていただけたかどうか、まったくもって
分からぬけれど、私が紡ぐ言葉はお好きだったのだろうと思う。
そう、音楽プロデユーサー宛ての健さんのお手紙にはあったから。
北の宿屋の、例えば囲炉裏のほとりで語らいながら、お互い納得の行く
話を探り、書いてみたかった、と今にして思うのである。
その後悔を込めての書評・・・・・というよりは懺悔であり、遅い
恋文である。