「人間って、時として息を呑むほど残酷よ」
これは昔「母たることは地獄のごとく」というドラマに書いたセリフで、
見てくださった江原啓之さんが、ご自身のブログでこの
せりふを引き、絶賛してくださいました。
それを思い出したのは、高畑淳子さんの謝罪会見を
批判する人たちの声の中に、度を逸して残酷なのがあるからです。
まず、高畑さんが被害者の女性に対して、「被害者とされている女性」と
繰り返したことが、あげつらわれているようですが、これは
明らかに弁護士の指示です。
有罪判決が出るまでは、法的には被害者という断定は出来ないのです。
ただ、これは私の偏見に傾いた持論ですが「弁護士ほど人情の機微に疎い
人たちはいない」。
法的にはそうであっても、人の心の領域では使ってはならない言葉が
あります。それが解らないから余計な指示をして、加害者の親が
余計な批判を浴びる・・・・
私にも多少の経験があり、ある方の謝罪会見に立ち会った時その方が
「少年法」を口になさり、あ、まずいな、と思ったら案の定、
バッシングの、火に油を注いだ形になりました。
歳月が経過し一件が沈静化してからその方に「少年法をご自分から
持ちだしたらダメですよ。正論であっても記者や、視聴者の反感を
煽ります。こういうの理屈ではないんですよ。感情の世界なんです」
と申し上げたら、その方いわく「弁護士にそう言うよう、指示されたのよ」
その時私は、「弁護士ほど人情の機微に無知な人種っていないんですよ」
と溜息とともに申し上げたのでした。
高畑さんの、服装や化粧にすら底意地悪い批判が浴びせられ、「息を呑みます」。
曰く、「謝罪会見なのにファッショナブルすぎる」と指摘。パールのピアスやヒールの靴は不適切で、メークも決まりすぎていたとし「謝罪というより、女優としての自分の会見になってしまっていた」
高畑さんはカラーを避け、黒い衣装で現れましたがそれでも言われるのです。
ノーメークで、平べったい靴で登場したら「わざとらしい」と言うくせに。
長年の手慣れた化粧がそれほど、罪でしょうか。
パールは葬儀で許されているものなのに。確か高畑さんはそれでも
ネックレスは避けていらしたような?
言葉の端々、細かい動作があげつらわれ「鼻をつまんで涙を演出」とまで言われます。「女優としての自分の会見」とは何でしょうか?
「女優ではない母親としての会見」があるのでしょうか? 高畑さんは根っからの
女優です。
優秀な女優さんなので、全てが素であったとは私も思いません。それはしかし、
すでに身についてしまった第二の「自然」なんです。
誰しも、多少は人前では演じるのです。まして高畑さんは、それをひたむきに
やって生きて来られた方です。
私はむしろ、鼻水や涙で見苦しくならない高畑さんを、さすがだと
思って拝見していました。これは確かに女優としての自制です。
泣いて鼻水出すのを熱演というのは勘違いです。見苦しくならないよう
泣くのも芸のうちなんです。その作品のカラーにもよりますが。
一晩二晩で肉の落ち、げっそりとした頬まで演じられるわけもないでしょうに。
自分の息子のことばかり語って、被害者のことに言及しない、というごとき
批判も見受けました。いえ、言及はしていました。おそらく「息子のことばかり」質問されている一部をちら見しての批判でしょう。
高畑さんは「(被害者を)自分の娘だとしたら・・・・と全てを考えるようにして」という言い方で最大に慮った言い方をされていました。個人的に被害者の方に会おうとしたが、叶わなかったとも。
・・・・・ことさら、かばうわけではないのです。息子が人非人のことをして、そこに巻き込まれた母親への世の中の視線は冷たいです。
それにしても、残酷な言葉を投げかける人がいるものだなあ、と思うのです。
加害者本人でもないのに。(親が子供への責任を一生負い続ける日本の親像を
私は嫌いではないのです。ただ、程度というものがあるでしょう)
それに、もう一つたぶん蛇足、たぶん言わないほうがいい一言を
書きます。女優という、いびつな存在に・・・・特殊な感性の生き物に
完璧な常識を求めますか・・・・・・。本人が社会倫理に反することをしたら
打たれるのは当たり前のこととして。