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Channel: 井沢満ブログ
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皇祖神アマテラスオオミカミは、人類の神でもあろうか

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「生前退位」というかたちでの「天皇陛下の引退」が、道理には
叶わぬこと、折りに触れ述べています。

女性天皇擁立論は以前からなされてきましたが、生前退位の動きと共に
活発化して来たことに、わたくしは胡乱なものを感じていました。
生前退位と女性天皇説が平行して論じられることに、何の
因果関係もないからです。

わたくしは、女性天皇説は何としても現在の男系天皇から女系天皇への
皇統の上書きを目論む勢力による奸計だと、見做して来ました。

女性天皇と女系天皇とは、違います。歴史にまれにあった女性天皇は、
あくまでも一時の「仮」、つなぎでしかなく愛子さまを天皇に即位させる、ということとは、意味合いが画然と異なります。

まして男子継承者である秋篠宮殿下と悠仁親王殿下がいらっしゃる以上、女性天皇擁立論はお二人の排除論でしかありません。何の意味があるでしょうか。

秋篠宮殿下は宮家で傍系ではありますが、天皇陛下に即位された瞬間に皇統は秋篠宮殿下に移ります。それが嫌な人たちが、何やら画策していたようです。

万世一系というのは、男子だけのDNAで皇統をつなぐのであり、それゆえにこそ日本人は皆、系譜を辿れば神武天皇に行き着く、という一体感が日本人特有のゆるぎのない絆となっていました。

わかりやすく言えば、愛子さま天皇となればその伴侶が今上で125代続いた皇統に取って代わる、ということです。(解りやすくするために、愛子さまが今上の次を継ぐならというあり得ない形態を仮に述べています)

皇統の希少性がとたんに薄れ、皇室はその神話性を失います。

神話を排除して、そもそも皇室は存在し得ません。

「天照大神も神武天皇もいない」と言ってのける人たちに、皇室の価値は
無縁です。

形而上の価値観を持ち得ぬ人たち(要するに霊的資質を欠いた唯物主義者たち)は浮世の栄達、権力、成した財産などを誇ってすがる俗物なのであり、皇室の祭祀の力なども解さない人たちです。

嘆かわしいことには、昨今皇室内及び関係者にもこの種類のスノッブな方々が、まれにいらっしゃいます。

天照大神という日本国民の総氏神女性である、ということを理由に女性・女系天皇の正当性を説く人がいますが、「神」を性という限定性で捉えること自体が誤りです。

神はある「存在」「波動」「力」であり、人ではないので本来無性でありときに両性具有であり(というのも、人間の狭い感覚狭い思考領域での受け取り方に過ぎないのですが)、その性別にこだわることは無意味です。「男性性」が勝る神、「女性性」の傾向がより強い神がいる、という認識でよろしいかと存じます。

狩野芳崖描く「悲母観音像」が豊かな乳房と、ひげとを両方備えていることがその象徴かもしれません。美術には疎いので、私見に過ぎませんが。

わたくしは、まれに天使を可視化することがございますが、大天使ラファエルなど大方がイメージするブロンドで青い目の美しい青年ですが、ただ剣を手に携えた荒ぶる大天使として認識されているミカエルは思いがけず、茶目っ気のあるお方なのが意外でした。

ただ、だからといってお二人の天使が本当にそのような「人間に羽の生えたような形」で存在しているとは思っていません。人間のセンサーが感知する波動が、人間に解りやすい形を取って見せているのだ、とそのように解釈しています。私見です。

同じく、女性として描かれることの多い天照大神が「女」という固定した性にとどまっているとは、わたくしは思いません。「日本書紀」では女性と断定されているものの、天照大神男神説は、あります。

というより、皇祖神としての天照大神の本家本元、伊勢神宮にお祀りされている天照大神は男神です。

平安時代、大江匡房は『江家次第』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が男性用の衣装である事に言及、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経には「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記されています。

京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神ですが、いずれも男性のお姿。天照大神は「眉目秀麗の男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ」と岩戸山町には伝えられています。

江戸時代の円空には、天照大神を男性として彫った塑像があります。

従って「天照大神は女性神であるから、女性天皇がいらっしゃるべきだ」という説は成り立ちません。

ただ・・・・・・

「延喜式」に描写されているごとく、「自然神」でいらっしゃるので本来、人間としての性別はお持ちではありません。自然神としての呼び名は「あまてる」として神社にお祀りされます。

神の男性性の側面に照準を当てれば男子として描かれ、女性性の優美やたおちゃかさにフォーカスすれば、女子として人間が「勝手に」感知する、という説明で解って頂けるでしょうか。

推古天皇即位を推進するために「天照大神は女性なので、女性が天皇になってもいい」という論理を持ち出すため蘇我一族あたりが捏造した、と説明する説がありますが、現在もまさにそのとおりですね。

ただこのたび、秋篠宮殿下が「皇太子待遇」となられたことで、皇室費の増大と、したがって警備の充実がなされたことは喜ばしいことかと存じますが、それ以上に秋篠宮殿下が皇位継承権第一位であると打ち出されたことで、ひとまず愛子さま天皇論はひとまず後退したと思ってもよさそうです。

それはそれで、別の問題含みなのですが今回は触れません。結論だけ申し上げれば、わたくしは皇太子殿下が何より大切にしていらっしゃるご家庭、皇太子妃と内親王のおためには、自ら身を引かれ皇太子妃と、内親王の療養に心を尽くされるのがお幸せであろうかと、拝察しています。いつぞや、おっしゃったように皇太子妃の「人格」というごとき、民間の価値観をお持ちなら尚更に。

戸籍を持たぬことに象徴される如く、天皇皇后となられては、通常の人間としての則ではやっていけず、皇太子ご一家と国民双方に、幸せな結果を招くとは思えません。

いくらか話がそれましたが、天照大神とは要するに太陽神なのであり、ゆえに日本だけの神ではなく、世界規模の存在です。

古代ローマで隆盛したミトラ教は、太陽神「ミトラス」を主神としていますが、こちらも男神としての認識です。(ミトラスとアマテラス・・・・なんとなく語感が似通うのも興味をそそられます。スメラミコトのスメラが、シュメールから来ている、というごときレベルの関心ではありますが。

ただ・・・・イギリスの宣教師ジョセフ・エドキンスのように、「アマテラス」の名がミトラスに由来すると主張した人もいます)

エジプトでは「ラー」と呼ばれる太陽神が崇拝されていましたが、絵画を見ると男性神として描かれています。(余談ですが、わたくしはいくつかある輪廻転生の“記憶”の中の1つが、エジプトの神官です)

インドの叙事詩「マハーバーラタ」においては、「ヴィローチャナ」という呼称で、太陽神が登場しています。

中世の「本地垂迹説」で「神仏混淆」が広まると、インド由来の神々が日本に登場し、天照大神には当初、観音菩薩(十一面観音菩薩)が当てられましたが、やがて大日如来となり、「両部神道」が登場するや天照大神は宇宙神である大日如来と同一視され、格段にスケールアップされました。

大日如来も優美な女性のイメージではありますが、しかしその化身は不動明王であり、明らかに「男性性」が勝ります。

このように神々の世界では人間の肉体になぞらえただけの狭い性の観念からは大きく飛翔して融通無碍なのです。ヒトではなく、カミなのだから。
神とは人間でなく、宇宙に遍満するある、一定の傾向を帯びた波動であり、パワーです。形は本来ありません。

人間の性別も肉体という魂の容れ物にして、この三次元に魂を繋ぎ止める錨がある間のことだけで、この三次元を去る時は性別は捨て去ります。
ただ神々と同じく、魂にも男性的側面、女性性の要素の双方が存在します。

ずっと私見を述べています、と再度念のため。

太陽は「陽」で男性性、月は「陰」で女性性、両者相抱擁して円満具足の光を放つ、という捉え方も美しくて、わたくしは好きです。しかし・・・・

陰陽二元論は、日本書紀の国産みにもあり、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰とされ、それは神話に「形」を与えるための方便であることは理解しますが、いささか神々が人間よりに寄せられたという印象が否めません。

神々はもっと、不定形の美しい波動です。

波動の粗いのが人間であり、それ以下の動物であり・・・・繊細になるに従って神に近づきます。

ほぼ私見を基調として述べましたが・・・・・神に本来固定された性別はなく、もっと自由な波動であること。
天照大神は要するに、太陽神なのであり日本という枠を越えた広がりを持たれたあるパワー、ある波動であるということを、拙く綴ってみました。

広がりをもつゆえに、現在の皇室のあれこれはさておくとして、皇室はと言うより・・・神道は行き詰った世界を導く道ともなり得るのではないかと、愚考も致します。故に、疎かになりつつある祭祀を無念にも思い、またその身体的疾患により、皇太子殿下には神前に進むための斎戒沐浴が難しく、それゆえご退位を、その上で秋篠宮殿下にご移譲を、と率直なところ民草のひともととして、願っています。

 

語句解説

■本地垂迹説 本地垂迹(ほんじすいじゃく)。神仏習合思想の一つ。日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。← 不肖井沢はこの強引な説は採りません。が、全ては1つという考え方に立てば、まあご自由にというところでしょうか。

■両部神道 両部神道(りょうぶしんとう)。真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想。両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)とも称する。

■『江家次第』 江家次第(ごうけしだい)は、平安時代後期の有職故実書。著者は大江匡房。全21巻(現存は19巻)。

■『延喜式』 延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)である。

 

*誤変換その他、文章の瑕疵は後ほど推敲します。

*皇室に関するコメントは、内容は自由ですが言葉遣いに敬意を
失わぬようお願いします。

 


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