過日、スコセッシ監督の「Silence」(沈黙)を観てきました。
久々に、唸るような映画を観せてもらいました。
いい作品は冒頭数分で解るのですが・・・・スコセッシ「沈黙」は
いきなり、タイトルから引き入れられます。
音楽なし。ただ、西洋人には風情ではなく、虫の声と共に「ノイズ」として捉えられているのであろう蝉しぐれ、カナカナの圧倒的な音量のみ。それがぷつりと途切れて、無音になり、その耳を圧する音声の不意の途絶えは、作品中も唐突に訪れ神の「沈黙」を象徴する演出で、鮮やかです。
のっけの、島原の火山の煙が立ち上がる地獄の黙示録的風景の中、バテレンたちが火山のマグマを身体にかけられ、むごたらしく処刑されています。地獄絵図なのですが、美意識のフィルターで描かれているので、絵画的に美しくもあるのです。
この感性がわからない人には、おそらく単なる「物語」でしかないのでしょう。スコセッシ監督が提示したアーチストとしての深淵を理解はしないであろうと思われます。
三島由紀夫氏がかつて黒澤明を評して「偉大なアルチザン(職人)ではあるが、アーチストではない」と。正鵠を射た発言であろうかと思いますが(といって黒澤映画への貶めではありません)・・・・スコセッシ監督は腕のいい職人であると同時に、この作品においてはアーチストかもしれません。
予想した通り、映画では(たぶん原作でも)テーマが逸れてしまうせいもあり、有色人種の奴隷化に手を貸したポルトガルの宣教師たちの悪辣な面は描きません。
豊臣秀吉が、宣教師追放令を発布したのは天正15年でしたが、日本国植民地化への危惧と共に、ポルトガル宣教師たちが神の愛を説きながら、その一方で多くの日本人男女を、子供も含めて海外に奴隷として売り飛ばしていたからです。資料として「九州御動座記」があります。
愛を説きながら、彼らの胸にあったのはビースト(獣)としての黄色人種であり、白人としての優越感です。神により近い白人が、群を抜いて格上なのです。
今も昔も彼らの基本的勘違いであり、思い上がりです。
スコセッシも、日本人の貧しさと汚さを重点的に描き当時あった、日本の洗練の極みにあった文化を描いてはいません。その精神性の高みも豊かさも。
ポルトガルがいかに文明に秀でていようとも、世界で最初の長編小説を書いたのは、日本人でありしかも女性です。極限まで語句を配した短い詩も日本のものです。古来より多くの日本人が庶民に至るまでポエットでありました。
また、当時の日本を訪れた外国人たちが驚嘆した、世界一の清潔さと暮らしの端々にまで息づいている芸術性も、描かれてはいません。
しかし、そこに踏み込むとテーマがぼけるのだし、映画とひょっとして原作も、それに触れないからといって作品自体の質を落としてはいません。「シン・ゴジラ」もそうでしたがレーゼドラマ(会話劇)が国防論を背景に展開され興味深かったのですが、「沈黙」でも彼我の宗教観の差異が語られる部分が、優れたレーゼドラマになっています。
ただ、もう一歩踏み込んで欲しい部分ではありました。たとえば日本人の宗教観を説明するのに、大日如来の名称を出して要するに「太陽崇拝」として描くのですがこれは、少々乱暴だと思うし、また大日如来より日本人のメンタリティを描くなら、天照大神でしょう。
遠藤周作はカトリック教徒ですが、スコセッシ監督もおそらくはキリスト教徒なのでしょう、かなりキリスト教側に加担した視点で、仏教や神道には不公平なのですが、作品じたいの瑕疵というほどではありません。
思想的には、申し訳ないのですがキリスト教は成熟はしていません。
組織としての「教」のことであり、キリスト自身が幼稚であったという
僭越なことは言っていません。
原作は知りませんが、いかに人間が過酷に扱われようと、むごたらしい運命に翻弄されようと、神は無言だが人の苦しみに寄り添って神も共に苦しんでおられるのだよ、という視点は・・・・・・まあ、そうなんですが、私に言わせりゃちょっと、ふざけるな、といわゆる「神」の理不尽に十代の頃から文句を言い続けてきた私などは、思うのですが。
人間をジャッジしたり救済したりする人格的キャラを持つ神など、存在はしていないと解った今、私もまた神をジャッジすることは止めたのですが。
この映画に関しては、終わってクレジット・タイトルが流れ始めても席を立たないでください。エンディングロールがまた、素晴らしいのです。
発端と同じく、音楽はなくただ、蝉しぐれ、ひぐらし、波音、雷鳴、叩きつけるごとき豪雨・・・・そしてふいに圧倒的音声は途切れ、訪れる静寂。
東宝シネマズは心遣いが繊細で、エンディングロールが終わってもしばらく明かりはつけず、観客を暗がりにおいて余韻を味あわせてくれます。
ただそれがありがたいのは、名作の時だけですね。
でもない時は、私もエンディングロールが始まると同時に、席を立ちます。
この間、名作と大ヒットしてもレベルが高いとは言えない映画の差異を
述べましたが、作る側の「志」が奈辺にあるか・・・・ということも
単なる娯楽かアートに昇華されているかの違いであろうと思われます。
ウェルメイドで、世界的に大ヒットしていても私がやや退屈で後味悪く感じる映画というのは「志」が低いのです。プロが見れば売るための計算が見えすく作品。
「タイタニック」もカメラの向こう側で、札びら数える手つきが見えて私などは興ざめでした。
「沈黙」は、ジャンク・フードを食べて、別にまずくもないけどなんだか血が汚れると言おうか・・・・・そういう大ヒットジャンク映画を見せられた後の清涼剤でもあり、細胞が蘇った思いでした。かと言って、この間も申し上げた如く万人の平均的知性と感性のレベルに応える作品はあってもいいと思います。という言い方も傲慢ですが・・・・・質も志も仮に低かろうと、売れる作品を生み出すことは至難だし、腕も要るのは事実です。
ただ・・・・質の高い作品と、大ヒット作品とは基本で異なるのだし、同じ地平で面白い面白くないというレベルで語られるものでもない・・・ということは心得ておいて頂きたい、と思います。
*誤変換他は、後ほど推敲いたします。ご寛恕くださいませ。