「英文脈」のセリフを、脚本の書き始めの頃は書いていたことがある。
英文脈というほど、ご大層なことでもなくまたさほどの英語力を有しているわけでもないのだが。
ことの発端は豪州シドニーに二十代前半暮らしていた頃、日本大使館の主宰で日本映画週間が設けられたことがあり、日本映画をオーストラリア人たちの中で観たことがある。日本人はほとんどいない。当時のオーストラリア自体が日本人にはまだ未知の遠い国であった頃だ。
白人たちと、息をひとつにして画面を見ていると自ずと彼らと共に呼吸を共にしているせいか、感覚が同じになって来る。彼らが思わぬところで失笑するのだが、私も感覚的になぜ失笑するのかは理解出来た。日本で日本人の観客として見ていたら、分からなかった箇所である。
字幕の翻訳の巧拙も無関係ではなかったとは思うが、しかしながら失笑や揶揄とは無縁に白人観客の感情が、映画の作り手の意図のまま運んで行かれたのが、黒澤映画であった。
作りがロジカルだからだろう。過剰な日本的情緒に溺れず堕さず、論理的構築であるという点では、全く肌合いは異なるが小津映画とてそうだ。
前者は世界スタンダードで作られ(おそらく黒澤監督の感覚自体がそうなのだ)、後者は日本を追求することで、世界スタンダードに達した。後者には溝口健二監督もいる。
前ぶりが大き過ぎて、自作を語りづらくなってしまったが、シドニー体験が私の脚本家としての原点となっている。すなわち、海外に出して失笑を買うごときセリフは書くまい、と。
そういう理由で、いったん英語のダイアローグを脳裏に書き、それを日本語にいんたプリートするごとき感覚で新人の頃は書いていた。あくまでも「感覚」であり言葉で言うほど、英語に堪能なわけではないこと先に述べたとおりである。
英文脈のせりふを、いつしか忘れ果てていたのだが今回の作品「わが家」では、久々に少々意識してみた。英語的セリフがさりげなく、少しずつ散りばめられてある。
というわけで、最後はスタッフの一人としての義務である番宣で締めさせて頂く。
本日夜9時より2時間、「わが家」(TBS,MBS系列にて)