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Channel: 井沢満ブログ
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韓国の扱い方

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この間、呉善花さんとお会いした時、ご著書を3冊頂いたのですが、
久々のドラマの準備に入っていたりで、合間を縫いながら2~3ページずつ
あちこち、つまみ読みをしているというふうでなかなか落ち着いた読書の
時間も取れずにいます。

そんな断片的読書を、複数の本を並行して行っています。
何も読まないよりはいいので。

そのうちの一冊が、「赤い韓国」という櫻井よしこさんと呉善花さんとの対談本です。めっぽう面白いので腰を落ち着けて読み通したいのですが、時間が取れません。

本の帯の惹句が「日本の禍はいつも朝鮮半島からやってくる」で、思わず膝を打ちそうなフレーズです。

韓国は理性の国ではなく感情の国です。情が理性を上回ります。
情が法をしのぎます。

人にも、そんな感情的な手合いがいますね。気に食わないとヒステリックに喚き散らし、憎しみによる思い込みは妄想となり、妄想がさらに次の妄想を生み、その人の頭のなかではそれなりに「理屈が通っている」ので、その理屈を納得しひれ伏さない相手が憎くてたまらない・・・・。罵りながら、その感情をますます増幅させていき、そのうち憎しみが生きる目的になってしまう。

こういう人との付き合い方は解りますね。巻き込まれない。距離を置く。できれば遠ざかる。

国と国との付き合いも同じことです。相手と同じ憎しみと怒りの地平に立つ必要はありません。敬して遠ざける。俯瞰で眺めている。不必要な喧嘩はしない。しかし、毅然とけじめはつける。そのうち自爆が関の山。

韓国といえば、私がソウル生まれであるせいで、時々在日説が出ます。

戸籍に「京城」とあるので、出生地「京城」となっていたのを、今時の人々には通じないだろうから、とソウル表記に私のほうから申し出て変えて頂いたら、Wikiまでそう表記されるようになり、とたんに在日説が出回り始めたのです。

こんなことなら、京城のままにしておけばよかった、と思うのは差別心からではありません。家族とりわけあの時代の人達なので両親が気にしたことと、在日説が火種になり、私を貶める材料の一つに用いる人たちがいるからです。

頭が準備中のドラマで一杯で、いったい何が行われているのか非公開でいただくレポートでしか断片を知り得ないのですが、私を在日と言っている人がいるのですか?

言わせておけば? と私などは思うのですが、それを含め私の支持者の方々が、激しく憤りストレスを感じていたり、打ちひしがれたりしているようで、それに心を痛めています。

私自身は昔から有ることないこと言われ慣れているので、またか、という程度で、友人と会話の種にして笑っているような状態なのです。中には騒動をネットで見る知人もいて、「瞬間湯沸かし器にならないように、大人の対応を」とメールが来て、正直な所うんざり。分かっている友人たちは、何もいいません。

私がこれしきのことで(来る情報が、断片的で複雑怪奇。何が何だかですが、それにしてもたかだかネット内のことで)、高ぶったり怒ったりする程度の人間と思われているのかな、と。

しかし、私を思ってくださっての言葉ですものね。
私という人間の性格を知っている方でもないし。

ついでに申せば、私は1945年8月6日生まれ、終戦数日前の誕生なのです。そう原爆記念日。その当時のソウル(旧京城)は日本だったのです。
まだ日韓併合が続いていた時期なので。

死語かもしれませんが、「引揚者」なのです。当時は日本であった京城で生まれた日本人で、生後数ヶ月で母方の郷里長崎に引揚船で帰って来ました。
そこに、また原爆投下。いったいどういう運命なんでしょうね。
詳細は聞いてないのですが帰国自体は、原爆投下の後だったようで、それも市内ではなく野母崎という、軍艦島が見える海辺の一軒家が母の実家でしたから、とりわけ被害はなく海の近くだし畑もあり、敗戦後なのに食べ物に困ったことがありません。母の小学校時代はまだ学校の書類に「士族」と書き込まれていたそうです。貧乏武家だったと思いますが。立葵が紋所でした。何なんでしょうね。調べたことがありません。どこかの藩の系譜なんでしょうか。

そのうち大分県別府市に引っ越し、父が福岡の炭鉱に坑木を卸し、母は旅荘を営んでいたので経済は豊か、家には温泉が引かれ、女中さんがいて手洗いはその時代には稀であった水洗、私は茶髪にパーマをかけさせられ、ジャンパーを着て革靴、珍しいのでカラー写真に撮られ、流川通りという目抜き通りの写真館に飾られ、女中さんをお供に高原に白い自家用車でピクニックという・・・・・ほんまに戦後4年めかいな、という暮らし。

なんでだかMP(駐留軍)につてがあったようで、缶詰など手に入っていたし、街にはパンパンさんが米兵と腕を組み歩き、広場には米兵が整列していたりするのが、私の幼児風景です。

遊び好きの両親に連れられて、茶髪パーマに革靴、うさぎの毛皮コートの私はキャバレーに連れて行かれ(繰り返しますが、戦後四年です。東京上野には親を亡くした浮浪児たちがたむろしていた時代)、キャバレー通いのわが家なのでした。ミラーボールがキラキラ回るフロアで、おねえさんが「ブンガワンソロ」という音楽に合わせて腰布一枚で際どい踊りをしていたのを覚えています。

なんというか、華麗なるギャツビーの別府ミニバージョンと申しますか。あんなスケールの大きい贅沢な暮らしはしていませんが、食うや食わずの周辺から見たら相当の落差がある「分限者」の家であったことは事実です。

それが炭鉱の衰退と共に、父の商売も左前となり一気にお金を失うのですが、物書きとしての私にとっては贅沢の極みから、一転貧乏のどん底(というのはオーバーですが)、最も多感な頃に贅と貧との双方を味わったことは、何よりの教育であったように思います。

その間の暮らしぶりは、フィクションを交えつつ、NHKの連ドラに「家族合わせ」というタイトルで書き、私のお母さん役が三田佳子さんでその頃から数えれば、なんと長いおつきあい。祖母役が加藤治子さん。父親役が伊東四朗さんでした。視聴率もよかったドラマです。自分でフィクション混じりながら「動くアルバム」を作ったような塩梅で、贅沢させてもらいました。

思わぬことで、生い立ちの一端を語りました。

末尾になりましたが、私のこと(らしい)ことで、皆さんを怒らせたり、悲しませたりして心苦しく思っています。本人はたかだかネット内のゴシップごときで、傷ついたり何かを喪ったりはしません。どうぞ、皆様お心を平らかに、と私が言うのも変でしょうか。

非公開で詫びてくる人も。あなたのせいではありませんから。どうぞ、お気になさらず。得るのは断片情報でしかありませんが、幾つかの思い込みが妄想の連鎖を生んでいる・・・ただそれだけのことのように感じています。私はあることないこと、罵られても、昔から慣れっこなのです。どうぞ、皆様心配なさらないでください。
さっきも、電話で友人とジョークにして、話していたところです。

距離を置き俯瞰で眺めてご覧なさい。何やら、おかしく笑える要素がありますよ? ただ、私みたいに多少世の中に出ていてあれこれ取りざたされることに不慣れな人たちが苦しめられているとしたら、胸が痛みます。

笑いの要素もあると、つい言ってしまったのは喜劇って実は悲劇の反転した形なんです。

しかし、現実にないことないこと書き立てられ、中には職場を晒されたり、家族や友人の画像までアップされたりなど、それはもう犯罪の領域なので、笑ってもいられませんね。

 

誤変換他、後ほど推敲致します。

 

 


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