「外科医 有森冴子」という医療ドラマを書いている時から、
過剰医療反対の立場を個人的には取って来ましたが、
自分個人の考えをドラマで主張することを私は控えています。
しかしながら、持論に対してその反対の立場を脚本に入れ込めば
問題はないので、一度真っ向から取り組むべきであった、と
今は思います。
ガン告知の問題に関してはヒロインの冴子に託して
「患者さんの宗教観の有無、性格などを考え、人それぞれであるべき。
告知するかしないかという教条的二元論で語られるべきではない」
という立場を取らせていたのですが、今なら過剰医療反対の姿勢を
取らせ、その対立者を描くことで問題提起という形を
取ったと思います。
私個人は、口からものを食べられなくなった時が去り時。
自分の意思表明を出来なくなった時が去り時。
と考えていて、もっと個人的主義を言えば動けなくなったら
食を断って自然に去る、と昔からそう思っています。これに関しては私という
ごく個人の考えであり、動けない人は皆去るべきという主張ではないので、
誤解なきよう。生存に対する要求度は人により異なります。私は比較的、淡白です。
濃厚医療、過剰医療について明確に反対する立場の記事を
ネットで見て、感じ入りました。なぜこういう議論がもっと盛んに
行われないのか、常々不思議なことに思っていましたが、
病院経営の側面もあるのですね。
露骨でやや偽悪的言い方をするなら、「簡単に死んでもらっては
経営が成り立たない」のです。
しかし、今後は病床が足りなくなる時代に突入するそうです。
病院側もそうですが、私達個人も「いかに死ぬか」を考え、
常日頃から書き物として意志を残し、また家族に伝えていることが
大事な時代になりました。
私は、常々そう伝えていると同時に「日本尊厳死協会」発行の
カードを常に身に携えていて、私はもう20年以上も前から
ここの会員なので、そうとう昔から死に際については考えて来たと
思います。
これも持論ですが、死ぬことを考えることは、実は生きることを考えることです。どう死ぬか、ということはどう生きるかと同義語なのです。
私がネットで見て感じ入ったという記事はこちらです。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20150604-OYTEW52562/4/
「寝たきり老人がいない欧米、日本とどこが違うのか」
スウェーデン他、六カ国の終末医療を視察してきた医師夫妻による主張は、以下のごとくです。
1 延命処置はしなくても、緩和医療には手を尽くす。
2 延命処置をする時間があったら、緩和医療に時間や人を割こう。
同意です。
例えば痛みの緩和について。日本ではモルヒネはガン以外にはあまり使いませんが、本人の希望があれば場合に応じて使うべきでしょう。
医師の勘違いの一つに「自分がその痛みを体験したことがない」から、正しい選択が出来ない、というのがあります。
痛みがどれほどつらいか、痛みが過度になれば患者は24時間間欠的に拷問を受け続けている状態となり、生存している意味を見失うほどだということを理解していず、だから「むやみに痛み止めは使わない」となるのです。
医師夫妻は、なぜ、自然死ができないのか、高齢者の終末期医療について『これでいいのか』と問題提起をした医師は誰もいないと指摘します。
「病院経営の問題もあります。今や、療養病床の半分以上、多分7、8割は、経管栄養や中心静脈栄養で延命されている人たちです。そのため、点滴や経管栄養を行わなかったり、中止したりすると、患者さんは2週間ほどで亡くなるので、病床が空き、病院経営が苦しくなります」
「しかし、2030年には死亡者が今より40万人増加し、看取り先の確保が困難になると言われています」
患者の意志に反して、人工呼吸器を使い続けた例も述べられています。
患者の価値観より、院長の価値観が重視された例です。こんなことは、本末転倒でしょう。
患者は「意思疎通ができなくなったら外してくれ」と言うのが希望でした。おそらく院長には、外すことで家族に訴えられたら・・・・というごとき判断もあったのかもしれません。
そういうこともあり、私は元気なうちから「どのように去りたいのか」を家族には伝え、書き残しておくことを提案しています。
そうでないと、医療現場の現実に家族が向き合わされた時、選択に迷い苦しい葛藤に追いやられます。
「苦しみながら生きなくてもいい権利」について、私たちは真剣に考えたほうがいいでしょう。いずれ、死には皆、直面します。
欧米に、寝たきり老人はあまりいない、日本には多いという現実。
平均寿命が日本は高い。しかし無理やり生かされて長いことが果たして喜ぶべきことでしょうか。
人生の質は長さではありません。いかに充足して生きたか、それに尽きるのではないでしょうか。
誤変換他、後ほど推敲致します。