ふとヒッチコックの映画を見たくなって、「フレンジー」「ロープ」と立て続けに見た。
楷書体で描かれたサスペンスで、いまだにお手本であろうと思われるが現代のサスペンスの毒々しさに比べて、大人しく犯人さえ品が良い。スリル感は食い足りないが、その代わり人間の心理を細かく追うので飽きはしない。
「ロープ」にはジェームス・スチュアートが出ていた。この方の「翼よあれがパリの灯だ」を見てファンレターを出したのが、中学生だったか高校生の時だったか。
驚いたことに、万年筆の直筆でサインと短いコメントを入れたモノクロのポートレートでお返事が来た。
今のように、世界が狭くなく日本の銀幕スターもそうだったが、ハリウッドのスターさんなど、雲の上の人々だった頃であるから、地方の少年にとっては地を揺るがすほどの大事件であった。
ジャームス・スチュアートの署名入りポートレートは自分のアルバムの間に挟んでずっと長いことあったが、今はどうなっているだろう。
「フレンジー」の俳優さんの名前を顔も知らなかったので、調べてみたら
(名はもう忘れた・・・・・ジョン・フィンチだ)自宅で70歳で逝去、原因不明とあった。
原因不明が気にかかる。
スクリーンでは輝くほどのセクシーな美丈夫である。共演の、フルヌードをさらした女優がメーキングのインタビューに応じていたが、メロンがしなびた蜜柑になっていた。
人生は本当に儚い。
長いこと年賀状のやりとりがあった女優さんからの年賀状が
いつの間にか途絶え、そういえば最近見かけないな、とある日ふと気になって調べてみたらすでに逝去されていて、自宅で死亡しているところを発見とあり、その方は独身でいらしたので、どうなさったのだろうと今更ながら胸が塞ぐ思いをしたが、死はどういう形にしろ死である。
住み慣れた自宅で去られた、という意味ではよかったのかもしれないと思い直した。
私は「孤老死」という言葉に、余り過剰な悲劇性をまとわりつかせたくない。病院で管に繋がれて延々と生き延びるのとどちらを選ぶかともし問われれば、私は「孤老死」を選ぶ。住み慣れたわが家で事切れるのはある意味幸せなのだし、苦しむ時間がなかったのならむしろ僥倖。息を引き取った時に周辺に人がいなかったというだけで、独りで充実して暮らすことの出来る人々もいないわけではない。一括りに不幸呼ばわりも失礼ではなかろうか、と私は思うほうだ。
死は歓迎すべき卒業の時、という感覚であるので、人と多少考え方が違うかもしれない。「もういくつ寝るとお正月♪」という歌を私は死を思う時、思い出す。
指折り数えてその時を楽しみに待っている節がある。
「もう幾つ寝るとご臨終♪」
二十代の頃からだから、随分待たされている。
この間いとこの夫婦に自分の病の場合と死と葬儀について、軽く遺言したらだいぶ気が楽になった。墓は要らぬし、骨は不燃物で捨てて貰っていいが、残されたほうはそうも行かぬので、まあ適当にということで墓は自分で用意したのがあるが、東京から離れているので弟のところの墓に納めてもらうことにした。
死後あんな辛気臭いところに、私は立ち寄りもせぬし、まして居続けはせず、とっとと他へ行く。
篤い病の時は、出来れば放置そのまま逝かせて欲しいが(これも二十代の頃から考え変わらず)、だが周囲はそうも行かぬので、過剰な延命措置は絶対に止めて欲しい、とだけ伝えた。
管で栄養を注入するようになったら、私には逝き時である。
どうぞ邪魔をしないで欲しいのだ。この世での命をたかだか数年延ばして何になろう。
私の場合はであり、それでも生きたい、生きていて欲しいという人々も
いるのだろう。
献体すると、死後処理の物理的な厄介が消えるのだっけ?
近親者の同意書と判子が要るそうなので、今のうち作っておくのもいいかもしれない。
死を語っていると心が安らぎ、少しわくわくする。
一般からすると変なのだろうが、私にとって死は祝祭である。
ただ、好きな人が去るのは寂しく悲しいから、妙なものである。