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Channel: 井沢満ブログ
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母の介護

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男には介護は出来ないな・・・・というのが「ママを殺した」(藤真利子著)の
最もシンプルな部分の読後感である。

まりんこ、こと藤真利子とは公私にわたり30年以上に及ぶ付き合いがあるので
本書に私自身は登場しないが、記述の行間に(ああ、これはあの時)と
読み取れ、またお会いしたことのある方々も登場して、
なおさら迫ってくるものがあるのだが、「身びいき読み」しなくても
老親の介護という誰もがおおむね突きつけられる現実が、作家の娘らしい
正確な筆致と感性で綴られていて、一気に読み即、ご本人に
ラインを書いたのだが、書かれてある事象が重すぎて軽い言葉はかけられない。

真利子ちゃんのお母様には、真利子ちゃんが務めていた「アマデウス」の観劇の時
お目にかかったことがあり、ジャニーズ事務所のメリーさんにもこの時紹介
された。

真利子ちゃん、メリーさんと3人で何度か行った六本木のレストラン「まくろう」なども本書には登場して
そういう意味でもなつかしかった。

本書の表現は忘れたが、赤ん坊を育てることには未来があるが介護は
死への道筋だ・・・という、それはほとほとそうなのだと思った。

父親の愛人のもとを訪れ帰った真利子ちゃんをお母さんが「マリが汚れた!」と
冷たい風呂の湯につけて頭から押し込み溺れさせそうになるくだりなど、
申し訳ないが脚本家としての性根がわなないたくだりである。

「ママは私が殺した」は真利子ちゃん本人から、何度か直接聞いたことだが
軽々になぐさめる気にはならない。

「私が殺した」は120%の介護が行き届かなかったことへの自責であり悔いであろうが、
何より愛の表現だからだ。

愛する者(人間に限らず)の看取りに満点は絶対にない。あれもすればよかった、こんなことしなければ
よかったという思いにずっと付きまとわれる。でもそれがたぶん、愛の表白なのだ。
だから、真利子が「私が殺した」と言っても、私は黙って聞いている。
強い思いを前に、お座なりな言葉は無礼であろう。

看取った後、背負う十字架の大きさが、きっと愛の大きさなのだ。

かくいう私も実は犬たちに、毎朝詫びている。人と比べてはいけないけれど。
何という至らない「親」であったろうと、侘びて侘びていつしかもう十年の余が過ぎた。

そう言えば、真利子ちゃんは世田谷区に住んでいる頃、しじゅう遊びに来てくれたので
犬たちのこともよく知ってくれている。

明後日、内館牧子たちを加えて食事の予定なので、その時真利子ちゃんに
犬たちの思い出を聞いてみたいと思う。

 

 

 

誤変換その他、後ほど。

 


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