作家で僧侶である方の暮らしぶりがテレビで流れていて、私もなんとなく
眺めていた。昔、ある女優さんに連れられ庵を訪れたこともあり。
テレビを観ながらちょっと、あることにひっかかったのだが、しかし一般に
ひっかかったのは、私の思わぬところで、その方の
豪勢な住まいや食事や酒にあったとかで、私はそんなもの
どうでもよい。
精神性の高さと清貧とはイクォールではありはしない。
宗教に携わる人の豪奢な暮らしぶりはもっとスケール大きく、
他にもある。税金で優遇され観光地化したお寺や神社の坊様もそうであろう。
不景気の時祇園に繰り出して来るのは、そういう方たちばかりだと、昔
京都でタクシーの運転手さんに聞いたことがある。
いと、あほらし、と私などは思うのだが。
私がひっかかったのはその方が「幽霊なんていない」と無邪気に言い放ったことで、
これはいかがなものか。
幽霊というのは、魂の存在へのネガティブ面からの証明なのであり、それを
否定するということは魂の否定ではなかろうか。
私は霊を見るタイプではないのだが、感じることとラップ音で把握することはある。
それをことさら、れいれいしく言い立てる気はないが、この世とは境を異にする
次元が並行して、あるいは交わるようにしてある。死者との対話の経験は時折、書いてもいる。
亡き愛犬たちとのコンタクトについては、何度か書いた。
天使という、この次元の存在ではないお方たちを目視したこともある。目視と言おうか、
表現が困難なのだが、脳内のスクリーンに映ったものを網膜に再生している感じ、というのが
近いかもしれない。しかし確実に「見た」という実感が伴う感覚。
幽霊というのはいまだこの世に、憎しみや未練、怒り悲しみなど激越な感情に
自縛され執着して、本来死と共に軽やかに離れるはずの魂がいまだ、思い込みによる幻の肉体の軛(くびき)に
繋がれ、地上に留まっている存在、それが幽霊(不成仏霊、地縛霊)、なんと呼ぼうと
そういう存在がいることは確か。要するに自分が死んだことを悟っていない存在であろう。
幽霊などいない、とあっけらかんと言い放たれると、ではいったいこの方は何を指標に
修行をされ、何を価値観の基準として衆生に説法されるのか、それは
宗教者としてではない、一生活者の単なる「お話」ではないかと、思うのだ。
そがよろしくないとは言わない。聞きたい人がかくも熱心に押しかけるには
それなりの魅力があるのだろう。
ただ宗教家ではないな、とそう思う。神仏を語られるのは、いかがなものか。
その方の精神の練磨として、あるいはこの世の汚辱からの遁走として
この方の仏道修行であり出家なら、それじたいは無論否定はせぬけれど。
その政治発言も行動も私とは相入れぬけれど、そこも構わない。
ただ、法話という漫談の中にどうぞ政治的主張を忍ばせて
人々をミスリードしていただきたくないな、とそれだけのことである。
いわゆる法話の中でそれをなさっているかどうかは、知らぬ。
ただ、この方の説法を聴きに参集する人たちが、あの方がおっしゃるならそれが
正しいと思われそうで、それが懸念されるのだ。
無論、私は自分の見解が正しいと思っているから言うのであり、あちらから
言わせれば私など度し難き衆生なのかもしれぬ。
宗教家の美食についても、さして私は批判的に捉えもせぬけれど、しかしながら
ごくたまにだが肉を食らう身ながら敢えて申せば、殺生される生き物の痛みと恐怖を
思いやらぬ肉食の盛んな宗教家を私は好きにはなれない。
このたぐいの宗教家の方々の志というのは、那辺にあるのだろう。
霊を認めぬなら輪廻転生もおそらく知らず、ならば単なる政治上の運動家であったり、
人生の訓話者でありたいのだろうか。
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