先の稿で、向井理くんとコン・ユさんの芝居の質、芝居に向き合う姿勢が似ている、
と書いたら、コメント欄に次の書き込みを頂いた。
>「役は、どんな役でもいただければやります。役は選ぶものではないですから」と最近のインタビューで答えていました。そして役の為なら命を削ってでも万全の準備をしないと怖くてカメラの前に立てないと、脚本に、「頬がこけて目にクマができている」と書いてあったら、メイクに頼るのは嫌だと、幻覚を見るまでになっても水と塩で過ごし頬をこけさせ、目の下のクマは徹夜して作ったと、戦争の悲惨さを伝えるには内面からと、普段の生活も許される範囲で戦時中の食時を自分で作って現場でも食べていた、そこまでしないと不安だった、特攻隊員の遺書に涙するのではなく、自分で書けるくらいの精神状態にならないといけないと思った自分は不器用だからと答えていました。
これで思い出したことがある。
向井くんと話している時「永遠のゼロ」の話題になったので、私は靖国神社内遊就館に展示されている特攻兵たちの書簡に触れたのだったが、それに対する彼の反応は意外なもので、
「あれは、見ないようにしてるんです」
なぜ、と少々驚いて問うたら、
「自分はあの遺書を書く立場です。見る側の人間ではないので」
心中で、うなった。
見事である。役に対する時の覚悟もいいが、頭もいい。
頭の悪い役者にはたまにだが、憂鬱になることがある。
反射神経だけで、小賢しい芝居をやる手合い。
コン・ユの若いころ、中期、現在と時系列を無視した見方で見ているが、
最初からよかったわけでもない。徐々に薄紙を剥ぐように進化していって、
ある日、何かを掴んだのだろう、突然変異するように花開く。
今は満開。「サスペクト」におけるコン・ユはもはや神の領域だった。
向井くんは最初からいいので・・・・そこが相違点といえば相違点かもしれない。
ただ、私はいきなり「花嫁の父」で未知の青年として出会い、それ以前のことは
知らない。多少の助走期間はあったのだろうか。