ビルの谷間の小さな公園のベンチに腰をかけ、裸足になってカフェラテを飲んでいたら、
公園の一角にカステラがまるごと3個ほど投げ捨ててあり、そこに鳩が3,4羽群がって
いて、しかしカステラの数が多すぎて食べ飽きたらしく、ふんっ、こんなもん
いつまでも食ってられるけぇ! という雰囲気。
生意気だなぁ、と鳩が好きでない私は思いながらカフェラテを飲んでいる。
頭上の葉むらは5月近い爽やかな風にさやさやと鳴り、ビル街ながら
大気もそれなりに澄んで気持ちがよいのに、闖入者の鳩めが。
食ってればそれなりに、公園にたむろする目的も解かるのだが、こいつら何のために
くぅくぅ、ばさばさと心地よい静寂をかき乱すのだ。
小さな小鳥が好きで、わざわざ上野公園の雀に餌をあげに行くぐらいなのに、
図体の大きい鳥が薄気味悪い。親しみを感じられるのは、世田谷の住宅街に暮らしている頃
窓辺に置いたリンゴを食べに現れていたヒヨドリ「プッピトン」の大きさまで。
プッピトンの名の由来は別にない。
なんとなく頭に響いて名付けた。
このプッピトンは、暖かくなる前に北へと飛び去り、しかし北へ渡る
日に、私に挨拶に来てくれた。
リンゴや他の果物を置いてあったのは、庭に面した窓辺であり、プッピトン他の
小鳥たちも、姿を現すのは庭のほうに限定されていた。
それが、プッピトンが別れを告げに来た時は、普段は来ない書斎側の
窓辺に来て、羽音高く旋回して飛び去ったのだ。その日から姿を見なくなった。
なんでだか、ありがとう、とさようならを告げに来たのが解った、と
言い切るのははばかられるが、亡き愛犬たちからコンタクトがあるような
私は人間なので・・・・鳥もテレパシーめくものを感じ取ることは
あるのかもしれない。その時は、疑いもなくプッピトンの「言葉」を
感じ取った。
知人で、ヒヨドリの雛が庭に落ちていたのを拾い育て上げた人がいるが、
やはり親が挨拶してくれ、またその子が成長していよいよ空に帰って
行くときもそれなりの挨拶があり、そしてある日パートナーを連れて
見せに来た、と嬉しそうだった。
思い込みでもよいではないか。
しかし、私を含めた当人たちはこういう時、妙に確信があるのだ。
今年は来ないなあ、無事海を越えたのか・・・・・と他のヒヨドリは来ても
プッピトンの姿はなく、同じ形なのに私には何となく区別がつくのだ。
私が一冬、食べさせ続け他の鳥よりまるまると肥えていた、というのもある。
そのうち私は世田谷の家を越し、プッピトンとはいよいよ再会叶わなくなってしまい、私は
わが家にある大きな水晶球に二代目「プッピトン」の名を与えたのだった。
別れ際、鳥のぷっぴとんと一瞬心が通った瞬間を忘れない。
・・・・・などと回想にふけっていると、鳩たちが相変わらずぱたぱた、くぅくぅとうるさい。
外国人が日本に多くなるというのは、結局こういうことなのだ・・・・と
いささか飛躍して考えていたら、図体の大きい鳩がふてぶてしく足元に来て、いきなり
脱糞、ふんっと私を横目で見て飛び立ったのだった。
・・・・・鳩は好きになれない。
事務連絡 観劇後のお茶会に出られる方、お釣りの都合があるので千円札数枚を
ご用意ください、と幹事さんから。結構人数がいらっしゃるので、1万円札は
お釣りが大変、ということのようです。
たぶん2000円前後のことだと思いますが・・・・・。
誤変換他、後ほど