奥山和由さんの秋公開、新作映画「銃」を、御本人から
頂いたDVDで拝見しました。
「ソナチネ」に続く自信作だとおっしゃっていましたが、
モチーフが通底しています。
わたくし流解釈ですが「ソナチネ」は、ある側面から見れば
無意味で空虚な人生を(ある側面から見れば、です)、何とか生き延びるには
「遊び」で埋めるしかない、ということで登場人物のヤクザたちは
無為の日々を、子供じみた遊びに興じるのですが、
ついに究極の遊びである「殺人」を無表情にやらかし、
そして、自分をもあっさり殺して無意味な人生に自分でピリオッドを
打ちます。
「銃」は、ある日、銃を拾った若者が、その瞬間から
生き生きと人生が脈打ち始めます。
生きているという実感が、死に直結する玩具「銃」を
手にしたとたん、生じるのです。
生きるという意味が解らぬまま生きていることへの、苛立ちの
反動であったのかもしれません。
そして、ついには人を無造作に殺すのですが、
人を殺すということは自分を殺すことという暗喩を底に
秘めているもので(わたくし流解釈)、この主人公も
自らを殺めようとします。
北野武監督の、「たけし」としてのお笑いの裏には
寒々とした虚無が張り付いているような気がしないでも
ないのですが、人の心の奥底は覗けません。
同じく「ソナチネ」と「銃」が自分だとおっしゃる
奥山さん。人生の無為を埋める遊びが奥山さんにとっては映画なのでしょうか。
とはいえ、一方で手放しの人生賛歌である「熱狂宣言」を作る方なので
一筋縄ではいきません。
「ソナチネ」と「銃」をひとくくりにするなら、
私は「RAMPO」「女殺し油の地獄」派なのですが、
「ソナチネ」と「銃」が解らない、ということはありません。
(暴力性をわがものとして裡に秘めている人には、
自己同調して、響き合う作品だと思います)
ある女優さんと話している時、「今、手にピストルを持っていたら
間違いなく撃っていただろうという瞬間がこれまでにあった」
という言葉を鮮烈に覚えていますが、私にその要素はありません。
厭世的なのに、自死を選ばず来たのは自他ともに、命を断つという
行為にリアリティを持てないのです。
ただ、テロリストの心情はある程度わがものとして想像の範疇内にあります。
天誅とつぶやき仰ぐ冬の月
という駄句をいつぞや詠みましたが、あくまでも心情としての
それであり、実行はしません。
人一人を殺めたところで歴史の大きな流れは変わらぬ、
ということや、殺人は人の道に悖(もと)るというごとき
頭で考えたそれではありません。
妙な言い方かもしれませんが殺人者の資質をそもそも
持ちません。刹那の殺意さえないかと言えば、あると正直に
答えねばなりません。そういう要素が皆無でないから
「拳銃」の世界も、解ります。
陽気に語ってくださる奥山さんの、表情豊かな目を拝見しながら、この方のどこに
「ソナチネ」や「銃」が潜んでいるのか探れないのですが、
言葉の端々にふと垣間見える、やんちゃな喧嘩上等の不良っぽさが
好きです。
三田さんに「奥山さんって、少年がネクタイ締めたような人」と
言ったら、三田さんすかさず「あなたもね」。
はい?
誤変換他、後ほど