野村芳太郎監督、松本清張原作の「張込み」に続いて、木下恵介監督の「香華」(有吉佐和子原作)を見た。
いずれも、見事。
「香華」は3時間の長尺で臆したが、全編と後編の間に
ちょっと休憩しただけで、全く飽きなかった。
唸るほどにも、深く巧みである。
「張込み」を私は14歳ぐらいの時に見たのだが、劇中の男女の機微を正確に理解していたので、早熟といおうか物書きとしての資質は多少あったのかもしれない。
現在の目で見れば、14歳の時よりはいくらか見方が深くなった部分はあるが
14歳の私が映画から受け取ったものと大差があるわけではない。
高峰秀子さん演じる主婦の、前半はアップを撮らず張込みの刑事たちの視線で見て、愛人だった男と再会した時から、顔と表情の細部にカメラは寄っていく、というごとき「手法」は、子供の時にはさすがに気が付かなかった。
この職業を得ていなければ、大人になっても見逃していたかもしれない。
それにしても、半世紀前の日本映画を続けざまに見て愕然とするのは
昨今の映画、テレビの幼児化。成熟した大人の不在である。
未成熟文化に成り果てた原因はハリウッド映画の隆盛にも一因が
あるのかもしれぬ。
ヨーロッパ映画がハリウッドに駆逐され映画館から消えるに連れ、ハリウッド式の
儲け第一主義跋扈で、観客ターゲットの知性も感性も低い層に向けての制作に堕していったのかもしれない。大ヒットないしヒットは間口をとてつもなく広く設定しないとあり得ない。
日本映画で国際的賞を受ける作品もあるが、妙な政治メッセージに
辟易とするばかり。以前の受賞作に政治の妙な臭いはない。
アカデミー賞の授賞式におけるスターたちの政治発言にも
辟易とさせられる。私が出席させてもらっていた頃、
映画に政治を持ち込む風潮は皆無だった。
政治色のある作品を一概に否定はしない。ただしアートとして
昇華されていれば。
日本人の知性や感性の幼児化はあるいは、GHQ由来の教育にも
あるのかもしれない。
暮らしの中だけではない、映画やドラマにおける語彙の貧困化を見ても、その思いを
深くする。
日本弱体化を狙ったGHQが行った施策の一つが、日本語の追放であった。
幸いローマ字化の試みは潰えたが、敗戦から年を重ねるごとに
日本語が貧しくなっている。
誤変換他、後ほど。