読者の方から句集を贈呈して頂いた。
散歩の途次立ち寄るいつもの小さな公園の
緑陰で開き、カフェラテを飲みながら拝読。
感性の鋭い、秀句が多いと感じた。
同じく読者の方のお作でいまだ心に残っているのが、
マフラーを巻いておのれといふ荷物
である。たいそう以前のことで、文言は正確だが漢字使いが
このようであったかどうか、記憶がおぼろ。
それにしても、俳句という世界最短の詩形を持つ日本。
五七五という制約を設け、かえってそこに融通無碍が、感性の
飛翔が生じる素敵なパラドックス。
禅家の僧侶が円を一筆書きで描き、円よりもその余白が
宇宙を表す如き奥深さ。
蛙を「かえる」と日常には呼び表しつつ詩として昇華されれば
「かわず」に成り代わる繊細さ。
唱歌「朧月夜」に見られる如く「蛙のなくねも かねの音も」蛙は「おと」
ではなく「なくね」鐘は「おと」と変化する細やかさ。
詩的言語自体は、他に持つ国もあろうがこれほどの細やかさは
日本独自ではなかろうか。
移民が増えることの経済や安全上の危険もさることながら、
こうした日本の文化が蹂躙され絶え絶えになるであろうことが
懸念される。
ならば、個人が隣の個人へひっそりと伝承して行くしかないのであろう。
本来は子供へ伝えるべき日本の美を伝え得る大人が少なく
なっていることを憂えながら、しかし押し寄せる現実の
瀑流(ぼうる)には抗うすべもなく、では私はひっそりと日本の歌を
歌い続けようと思うものだ。歌うは、比喩である。俳句など、
NHKの「俳句王国」にゲストで数回呼ばれた時に
それらしくでっち上げて来ただけで、私に俳句の素地はない。
素人の論評もおこがましいとは思いつつ、素朴に
感じることを述べた。
若い頃は俳句より和歌を好んだが、今は俳句がいい。
塗り込める和歌より、余白ゆえに意味が無限大に
広がる俳句がいい。
和歌が十二単であれば、俳句は墨染の衣であろうか。
墨染めの衣がもつ色彩の豊穣さに、ようよう気づいたのが
近年である。凡才は長生きしたほうがいい。
夭折は天才だけにしか似合わない。