森が、樹木の自然発生なのに対して杜は、人々が意図的に
樹木を植え、そこを聖地とした、ということが
言えるだろう。
鎮守の森と書くより鎮守の杜が実相に近い。
明治神宮はまさに杜であろう。
人の手で後の繁茂にもっとも環境の良い
森が計算を基に作られ、そこが神の齊き(いつき)坐す(ます)
ところとされ、神官を筆頭に人々の日々の祈りにより
神的磁場として昇華される。
皇居が本来そういう場であった。
山自体が神社とされているところがある。
大神(おおみわ)神社などがそれで、拝殿はあるが
本殿はない。
昔々、美輪明宏さんが丸山姓から美輪姓に変えられて
間もなく(私が二十代半ばの頃である)、お目にかかった時
「みわ、(という音)は神に通じるんですね」
と思いつきを申し上げたら否定はされなかった。
山そのものを御神体とするのは、日本に限らず古代原住民の霊的
インスピレーションであろう。
アメリカが、インディアンを蛮族として西部劇で描き、
殺害放逐したが、しかし霊的精神性は、ひょっとして
土地を乗っ取ったアメリカ人たちより
インディアンたちのほうが高かったのではないか。
と思う時想起されるのは、戦後GHQが試みた日本弱体化政策である。
彼らの当時捉えていた日本人像は、山や岩に神聖を認める
蛮族であったろう。異教徒なので、殺してもよいという
発想が種類をわざわざ変えての2度もの原爆投下で
あったろうと思われる。
GHQは日本語を放逐しようと試みるが、早晩日本人の
異常なほどの識字率の高さを思い知り、駆逐が無謀であることを悟る。
侵略者の常で、彼らが言葉と共に圧殺を試みたのが日本の神である。
だが神道もまた生き延びた。所により、枯れ果てつつ
あるがまだ命脈は保っている。
土地には神の息吹みなぎるイヤシロチ(弥盛地)と、
息吹が失せたケガレチ(気枯地)がある。
国民が神と祭祀を見失う時、日本という龍神の形をした
この国がケガレチとなってしまうのではないか、と
それを懸念している。日本という国体の「気」が枯れるのではないか、と。
あらゆる既存の宗教がその力を失いつつあるどころか、災の
元ですらあった時代は終わりつつあり、私たちに求められるのは
個々人が神を見出すことではなかろうか。
日本では天照大神と名付けられたgod of the sunは
世界に遍満する。
よって神道は本来、世界に広まるべき性質を持っている
というのが私の説である。神道には教祖も聖典も教えも
なく従って宗教の範疇には収まらぬ闊達さがある。
天照大神god of the sunは、自然界の森羅万象と宇宙をそこに
含む根源神の表象として扱わねばならない時代に入りつつ
あるような気がしてならないのだ。
神官を頼らず、自力でsomething greatとの
回路を開きたい。
そこには「宗教」がもたらす対立はない。宗教は組織であり、
組織ある所、権力と位階、組織を維持するための金銭がつきまとう。
古代の人々は、宗教は持たずその霊感により神は体感
していたと思われる。
話が飛躍するが、これほど豊かな言葉を持つ日本が、
書き文字を持たなかったとは思えぬ。
中国から漢字がもたらされた時、即座に受け入れ
ひらがな、カタカナと発展変化させていく能力は
一気には得られるはずもなく、したがって私は
神代文字の存在を信じている。縄文時代の日本の豊かさを思う時、
なおさらその感を深くするのである。
しかしGHQによる言葉狩りは形を変えて実は
教育という形で戦後73年間機能して来たのであり、その成果が
現代日本の若者の言葉の貧弱化であろう。
日本の神の圧殺にもGHQは一見失敗したようでいて、
しかし搦めてからじわじわとそれは、酸が金属をいつしか
腐食するように進行して来た。子供たちは語彙を失い、
漢字は最小限に抑えられ現在に到る。
言葉がやせ細れば感性も思考も、やせる。
神もまた、やせる。言葉は精神と表裏一体なので、言葉が
貧しくなれば、神はその分遠ざかる。