火の用心の夜回りに出かけるというご町内の人と
立ち話をしていたら「初めて参加した時に『火の用心しゃっしゃりませ』と教わって、
その『しゃっしゃりませ』が解らず長老に訊いたんですよ」
むろん、しゃっしゃりませは「なさいませ」の意味で、
「さっしゃりませ」からの転化。
サ変動詞「す」の未然形に、尊敬の助動詞「さす」と「らる」の付いた「せさせらる」の変化型である。
火の用心の風情も好きだが、海外にそんな風習があるのはどうかは
知らぬけれど火事への用心を呼びかける言葉を丁寧、尊敬語で
発するのは日本独自ではあるまいか。
立ち話した人はその後「暴れん坊将軍」で大奥の腰元たちが
「火の用心しゃっしゃりませー」と深夜の城内に触れ回るシーンに、
納得したという話であった。
江戸かあるいはそれ以前かは知らぬが、古語がこんな形で
東京の街の片隅にまだ生きていることが、ほのぼのと嬉しく
感じられる。
夜回りのその日には町内の小公園にテントが張られ、
風除けのシートで覆われて、中ではおでんと
酒の振る舞い。寒い冬の夜、火の用心の夜回りを口実に
親睦会なのだろう。これも日本人の知恵であろう。
火の用心、という声の後にいい間合いで響く拍子木が
「日本の音」である。
中国地方の子守唄に「ねんねこしゃっしゃりませ」と
歌う。赤ん坊にさえ丁寧に語りかける日本人の
心映えがいい。
もっとも子守唄は「寝た子の可愛さ」に続き、
「起きて泣く子の面憎(つらにく)さ」と
正直であられもないのだが、旋律の物柔らかさに
乗せて歌われるので、刺々しさはない。
言葉も生き物でいずれは老いて滅びゆく定めに
あるけれど、その言葉に託した日本人の
心映えは、大切にしたい。
外国人が増え、日本のよさが駆逐されそうな
勢いの昨今、なおそう思う。
海上自衛隊のP1哨戒機が韓国駆逐艦の、撃墜予告に等しい
火器管制レーダー照射を受けたこと、それに伴う韓国側の恥知らずな嘘の連打に胸を
ざわざわさせながらも、日本人としての矜持と穏やかさは失いたくなく、
のんきなことを書いてみた。
国防相公開の動画は早速見てみたが、緊迫するアラームの
鳴り響く中でも海上自衛隊の男たちの
終始冷静でゆとりある構えに、これも日本人を感じた。
アメリカ軍なら、さしずめFUCK! の連呼ではなかろうか、
というのは偏見か、緊急時の軍人は声の記録を前提として
きちんとしているのかもしれない。
ハリウッド映画では、どうということもない
会話にfuckin'の連発で辟易とする。熟(つくづく)染まりたくない、
と思うのだ。
罵り語なら、日本語がもっと多岐に語彙が豊富であり、
それを忌避する気はさらさらないのだが、時と場を心得たい。
「ええい、韓国め豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」
「顔洗って一昨日来やがれ」と罵り言葉も、日本ではゆとりがあって優しい。