大嘗祭は、天皇陛下が御位につかれてから初めて行われる新嘗祭という新天皇一世一代の大神事である。
この皇室最大の、ということは日本最大の神事を粗略に扱い述べる人が多くなった。言葉を変えれば「国家の丈」の祭祀であり、私的行為のレベルに矮小化すべきものではない。そもそも天皇に私的祈りなどありはせず、御身を贄に祈るのはひたすら国家国民の繁栄と安寧、五穀豊穣、世界平和であるのだから。
皇室から神を追放してはならないという言い方は日本から神を消してはならない、と同義であろう。
祭祀は本来国事行為であった。それを皇室の私的行事として貶めた占領軍の意図は、天皇から神の剥奪であり、日本人の精神の背骨瓦解である。
新天皇が神々と相対して、国家・国民の安泰と五穀豊穣を感謝し祈る。ならば「私的行事」などでありはしない。「国家の身の丈に合った」祭祀であらまほしい。
天照大神は、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が日本を治めることになった時に、「日本がとこしえに平和でゆたかな国であるように」と、稲をお授けになった。
爾来、日本は「豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくに」と称する。 神意により稲穂が豊かに実る国である。
大嘗祭他の神事にお米は欠かせない。
遥か奈良時代以前より続く神事を、神話と共に私達は大事にしたい。
ちなみに、稲作は陸稲として縄文時時代より日本と不即不離にあった。
稲の大陸伝来は誤りであることを心得ておきたい。米には神の息吹がこもる。
春分の日はもともと春季皇霊祭と分かちがたくある。
グレオ歴に基づく春分の日をなにゆえ日本の国民が寿ぐのかその本来の意義を見失ったのは占領軍施策による。秋分の日も本来は秋季皇霊祭である。
建国の日と改称された紀元節の日付は、本来神武天皇即位の日である。
改称も占領軍による日本語破壊、つまりは日本人の精神の脆弱化の目論見による。
神話はいわゆる歴史ではないにせよ、日本人の「精神史」であり、事実を超える真実が記されている。
拙文中の瑕疵については後ほど