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GHQによる焚書の灰の中より甦れ、日本

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偏狭なナショナリズムで、国対国の優劣を論じる趣味はないし、
千年も時が経てばそれは自国の歴史であると同時にもはや
人類史に属することかと思うのだが、しかし自国の優勢を
言いたがる韓国に事実を歪められるのは困る。

だから反論だけはしておかねば、あったことがなかったことに、
なかったことだがあったことにされてしまう。

「文化の高い韓国が、低い日本に文化を伝えてやった」

「奈良は百済の影響を受けて作られた」

韓国が懸命に発信しているこれらのことを、覆す史跡が発見された。
他ならぬ韓国人学者の手によって。

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150527-00000066-wow-kr

韓国・全羅北道で韓国最古の前方後円墳…土師器など出土で5世紀後半だと確認

                    抜粋

 

大韓文化財研究院が実施した発掘調査の結果、韓国南西部にある「高敞七巌里古墳」が韓国の前方後円墳の中で最古のものであることが確認されたと、 韓国文化財庁が27日に明らかにした。

高敞七巌里古墳は、栄山江(ヨンサンガン)流域に集中的に分布する他の前方後円墳のものと同じ6世紀前半に作られたものとされていたが、日本の土師器系高杯などが出土したことで5世紀後半であることが確認された。

                略

 

 同時に石棺内部には百済系の器台や蓋杯をはじめ、日本の土師器系高杯や円筒形土器、さらに鐵鏃や馬具の付属品である雲珠なども出土している。

                略

 

  今回の発掘調査結果は、韓国の前方後円墳の性格と出現時期に関する研究だけでなく、日韓の古墳文化の比較研究をより活性化させるきっかけになると文化財庁は期待している。

 

              ーーー 抜粋ここまで ーーー

 

日韓の古墳文化の比較研究で言えば、世界最大級の古墳は日本にあるし、韓国より旧い古墳も日本にある。

 

仁徳天皇陵は、世界三大古墳の一つといわれているが、スペックは、

 

全長(Length) 全幅(Width) 全高(Height)

仁徳天皇陵   486m 300m 35m 

ギザのピラミッド 229m 229m 147m

秦の始皇帝陵  245m 340m 53m

 古代より世界に秀でていた日本文化 仁徳天皇陵

たったこれだけの事実を無視して、韓国は自国の歴史の優越性を言い立て、
すでに証拠の出ているものを、前方後円墳は韓国起源と主張する学者が
まだ韓国にはいる。

事実を無視してまで、韓国の優位を言いたがる学者がいる一方、学問の領域では
嘘はつかず、淡々と事実を発表する学者もいるから、このたびのことは、
ちゃんと報道もされたのだろう。

しかしこれだけのことが出てもなお、韓国の文化が日本より古く秀でていると主張する
人々のほうが多いだろうことは容易に予測される。

それが韓国という国である。

さして勉強もしていない、不得意分野なので理路整然とまとまった反駁文は
書けぬけれど、思いつくまま箇条書き的に並べてみる。

要するに今回の発見は、古代朝鮮南部を倭が支配していたということなのだろう。

韓国の歴史の教科書に「百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた」と
記載されているので、韓国民は日本より自国文化が優れていたと思いこむのだが、
そもそも百済・高句麗・新羅三カ国と現代の韓国人とは、イクォールではない。

これに関しては、朝鮮人学者が、新羅・百済・伽耶人と現在の朝鮮人のDNAは違うと
研究発表をしているはずだ。

それに、韓国の教科書の記載内容も、自国の文献によるものではなく、「日本書紀」から
取ったものであり、そもそも韓国に古代の文献は乏しい。

「朝鮮王朝儀軌」さえ原本は散逸させ、日本にあったコピーを「返せ」と
言ってきて、返す謂れのない文献を日本が返してしまったのは、
民主党の時代であり、それについて私は「バンキシャ!」で喋ったことがあるので、
よく覚えている。大騒動して返された割には、「朝鮮王朝儀軌」がその後、
どこかに大切に保管され、半永久的な保護措置が取られたという話は聞かない。

歴史自慢をするわりに、旧い文化遺産を大事にせず、お寺など荒れ放題であり
名所旧跡が少なく、壊れ果てたところは日本のせいにされる。

彼らは百済を誇る。百済が程度の悪い日本を感化、向上させてやったと言い募るが、
現在の韓国人と何の相関性もないのだし、百済も日本であったのではないか。

任那の日本府は南朝鮮にあった。

そもそも『三国志魏書』馬韓伝。中国の文献『三国志』魏志の東夷伝、韓の条によれば、

帯方郡の南が韓。韓の東西は海で、韓の南が海ではなく陸の、倭の地。韓と倭は地続きであり、すなわち韓半島南部は倭と、明確に書かれている。

よく知られた好太王(広開土王)碑文によれば、

「倭が海を渡って百済と新羅を臣民にした。日本、百済・任那(加羅)・新羅に兵を派遣して臣属させる」

とあり、古代朝鮮は日本に二百年以上にわたって支配されていた、と記されているのではなかったか? 韓国の古墳からは日本人のDNAを持つ人骨の発見があったはず。

「羅州ヨウンドンリ古墳から1千500年前の日本人の遺骨発掘」と報じられたが、人骨は朝鮮人ではなく、DNAは日本人に最も近かった、とされている。

韓国人と日本人の血が似通っていると、言われることがあるがDNAで画然と異なることは
証明済みである。

以下画像他、NHKのサイトに負います。

http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2015/05/0529.html

ただ私の主観も交えるので、原文は元の場所で確かめられたい。

 

日本人のDNAは周辺諸国のそれと画然と異なる。
縄文人のDNAを受け継いでいる可能性が濃くなって来た。
男だけにある「Y染色体」の調査から得つつある結論らしい。

Y染色体というのは、父親からその息子に受け継がれる。
「男子一系」というのはそういうことであり、男子でなければ神武天皇まで
辿れないので、女帝反対論がある。

日本人男性の父、そのまた父と辿って行くと、チベットやアンダマン諸島の人々と
共通の父親を有することになるらしい。

日本列島に古代より住む縄文人をD、近年大陸からやって来た弥生系がOである。

いずれにしても遺伝子にD系統を持っていない韓国人と日本人が血を
同じくしているという説は成り立たないという。

 

            ーーーーー 引用含めた文章はここまでーーーー

 

ちなみに、MERSはさほど強い伝染力は持たぬはずなのに、韓国人の
DNAは特殊であり、米科学誌「Science」によれば、は、韓国におけるMERSウイルスの感染者拡大について、「医学界の通念を破っている」と報じた。

朝鮮半島の人々は、これといった女性は中国に献上させられていたせいで、
ある特殊な交配により、極めて特殊遺伝子を持つに至ったという人もいる。
いずれにしても、日本人とは違う。類似性を強調する人がいるが、それは
間違いである。近いのはせいぜいチベットと、アンダマン諸島の人々であるということか。

日本の装飾古墳は、4~7世紀の建造とされて来たが、オランダの歴史数学者レイノード・ヨンゲ博士の説によれば、一部は紀元前千年、場合によったら紀元前5千年の可能性もあるという。

事実なら驚くべきことで、エジプト文明最隆盛期の紀元前3000年~前2000年より、日本の装飾古墳の絵が遥かに凌駕することになる。

1つの「説」であろうが、私は個人的にあり得ると思っている。サミュエル・ハンチントンが世界の七代文明説を唱えた時、日本を中国文明圏に入れようとしても入れられず、結局日本が7つの文明圏の中で、唯一単独一カ国で文明を形成しているとしたことを、思い出す。

日本の考古学も新たに新たに洗い直さないと、GHQ政策下で随分いじられたようで、
教科書から縄文時代が消えた時期があったのも、GHQの日本弱体化施策の
流れにあったかと思う。

縄文時代の日本人が有していた文明の高さを知られたくない一派がいる。
縄文時代を研究すれば、日本が朝鮮から何かをもらったなどという
説が存在出来なくなるからだ。

GHQの学問統制は、歴史学・考古学・国語学にも及ぶ。
戦後70年、日本は残りの30年間にGHQ発、韓国中国の捏造を正しておかないと、
一世紀経過すれば、捏造が真実として歴史に刻印されてしまいかねない。

日本人は、立ち上がらねば。子や孫が、偽りの日本史を背負わされ、それは
誇らしい歴史ではない。事実なら受け入れるべきであるが、事実ではないのだ。

日本の各学校に韓国朝鮮人の先生や、帰化された人が教師として小学校から
大学までいらっしゃるが、私が知り得た限りでは、彼らは正当な歴史教育を
日本人の生徒たちにはしていない。
外国人の教師はいてもいいが、フェアに歴史を扱える人に限る。
韓国朝鮮の先生たちは本国の教える捏造に、余りにも染まりきっていて
自らが虚偽を子供たちに教えているという自覚すらないのだ。

まず日本は神話の復活を。神話は寓意の中に真実を含む。

 

朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけて、新羅・百済・任那の勢力圏内で翡翠の勾玉が
夥しく出土しているが、勾玉に使われる等級の翡翠は倭国の産である。アジアでは
他にミャンマーにしかない。科学組成の検査からも、朝鮮出土の勾玉は、糸魚川周辺遺跡の
組成であることが判明している。

中国の『後漢書』もまた、勾玉が日本由来であることを、証言している。「出白珠青玉」として。
倭では真珠と青い玉(翡翠の勾玉)が採れると。

『魏志倭人伝』には「壱与が魏に2つの青い大きな勾玉を献上した」と記されている。

『隋書81巻 列伝46』 によれば、「新羅と百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭へ使いを通わしている」と明記されている。

さだめし翡翠の勾玉は、貴重な交易品であったのだろう。倭国はそれを有していたのである。

それにしても、「任那日本府」の記載が教科書から消えたのは、韓国からの要請だったと
仄聞するが、もし事実ならなんと情けないことではないか。
縄文時代、任那日本府と日本の正しい歴史が、放置していると削除され変形されて行く。

百済や新羅が、日本を大国だと仰ぎ見ていた様は、以下の文献に記されている。

三国志 宋書倭国伝 広開土王碑 日本書紀 百済本紀 随書  梁職貢図新羅題記

ちなみに、末尾の「梁職貢図新羅題記」に描かれた野蛮人ふう裸足の倭人の絵をあげつらい、韓国人が喜んでいるのだが、当時日本と交流が絶えていたので、想像で描き上げたもので、現実の日本人とは違った。

その絵を見れば、南国風の衣装に、裸足、肌は黒く日本人でないことは韓国人の目にも
明らかであろうに、想像で描かれた蛮人の絵をあげつらって喜んでいる韓国人たちの情けなさ。

むろん一方に、この度の出土を正直にレポートするような、姿勢正しい韓国人がいる。

問題の梁職貢図新羅題記だが、実はその後 、韓国古代史研究の第1級資料の中の一つと
見なされる梁職貢図から新羅と高句麗に対する説明箇所がこのたび
発見されたのだ。 
青黛文集から捜し出したユン・ヨング博士公開 のそれによれば、
「新羅は倭の属国」なのである。

 

悪いことは出来ぬもので、他ならぬ韓国人の手で彼らの捏造を暴く史実が
発掘されて行く。

しかし、彼らはそれでも言い張る。それこそが韓国人なのだと、日本人は腹に据えていよう。

「かくあった事実」ではなく、彼らは「こうでありたい妄想」を信じこみ、言い立て、
嘘も100回言い続ければ、人はそれが事実(であるかもしれない)と
思い込むことを知っている。竹島の領有権もそうである。
客観的に明らかに日本領であるものを、彼らはものともしない。
韓国の旧い地誌である「大韓地誌」にも、竹島(独島)が彼らの領有範囲から
わずかながらでも逸れていることは記されてあるのに、それらは
意に介さない。「独島は韓国領でなければならない」ゆえに「独島は韓国領である」
それが彼らの論法であり、とりわけそれは日本を相手にした時、発動する。

中国という宗主の足元に長年屈して来た彼らは、せめて偉大な中国様の自分たちは
子供である、と位置づけ日本に対しては自分たちは「兄」である、と。
奴隷国の国民として長く過ごしてきた人たちは、「自分より下」の存在が
いなければ、誇りが血を流すのである。

中国の奴隷であったことも認めたくはなく、儒教的序列によれば「弟」という自分より
「格下」の日本をこれでもか、と罵り叩くことで誇りを維持しようとする。
しかし、発掘されてくる文献も出土品も中国に支配される前は、日本によって
支配を受けていた、ということが明らかになるばかりなのだ。

そんなこと、淡々と認めればいいのである。過去は過去である。
しかし厄介なことに、日韓併合はわずか70年前のこと。冷静に資料を
俯瞰すれば、世界の最貧国であった韓国が短期に近代化したのは
日本のお陰だということを認めざるを得ず、そしてまた彼らの
現実直視が不得手な視線は、明後日の方向に逸れるのである。

韓国古代社専攻の仁川(インチョン)都市開発公社ユン・ヨング博士は新羅史学会で
中国で発見された梁職貢図を出し、新羅が倭国に属した事実を(困惑しながらも)
率直にレポートしたのであった。2011年のこと。最近のことである。
韓国民が率直に、この現実と向き合うことを望みたい。・・・・が、おそらく
相当時間がかかるであろう。

梁職貢図を出すまでもなく、好太王碑は新羅が4世紀の末から倭国の侵略を
受けていたことを伝えているのだが、韓国の人々はそれを見ようとしない。

そして日本人に「歴史を直視せよ」と要求するのである。

宋の皇帝が倭王に「都監督新羅諸軍事」の権限を認めたのが元嘉28年(451年)。


 
斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅
其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘?通二年
其王姓募名秦始使随百濟奉表獻方物其國有城號曰
健年其俗與麗相類無文字刻木為範言語待百濟而
後通焉
-------------------------------
斯羅國は東夷辰韓の小国なり
魏の時代は新羅と云われ、宋の時代は斯羅と云われ、
その実際は韓に属し、あるいは倭国王に属し、
自ら使者を派遣する(使聘)ことができない立場であった。
普通二年(梁武帝治世521年)その王は百済に贈り物を
ささげる時に秦姓を名乗り始めました。
その国は城を健年と呼び、習俗は高麗(高句麗)に似て、
文字はなく木を刻んでいた。
言葉は百済を通して通じていた。

中国の、著名な考古学者でいらっしゃる王仲殊教授はこう記されている。

 
『第二次世界大戦以前、日本の朝鮮半島侵略に正当性を
 与えるため、『日本書紀』の「任那日本府」に関する記載が
 軍国主義者の手によって利用されたことは、たしかに
 批判されなければならない。
 しかし軍国主義の誤謬を正すにあたって、
 「任那日本府」に関する記載をすべて抹殺してしまう
 のもまた、正しい方法とはいえない。
 確かに倭国が「日本」の国号を採用するのは七世紀の後半だから
 「任那日本府」の名称は『日本書紀』編集者の改竄を経た
 ものだろう。『日本書紀』が古代の倭国を一貫して「日本」と表記
 しているところからみると、
 「任那日本府」は「任那倭府」に他ならず、
 所謂「任那の官家」がこれにあたる。つまり、名称の改竄は必ずしも、
 史実そのものの虚構性に直結しない。
 好太王碑には倭人が任那に侵攻したことが書き記されて
 いるし、『宋書』倭国伝は中国の皇帝がたびたび倭王に
 「都督任那・加羅諸軍事」の職権を与えた事情を記して
 あますところがない』

 

日本はGHQにより焚書されてしまった正しい史実を、灰の中から
再び炎として蘇らせなければならない。その炎が燃え立つとき
日本人は、忘れていた過去を思い出すだろう、ありのままの姿で鮮明に。


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