韓国からノーベル文学賞が出ていない理由として、韓国語が高等過ぎて翻訳文では伝わらないから、と韓国の某大学の教授が真面目に学生に講義をしている動画を見たことがあり、韓国のこういう自己過大評価については慣れっこの私も、さすがに腰が抜けそうになったのでしたが・・・・。
ノーベル賞なら、文学賞のみならず韓国は(選択基準の曖昧な)平和賞1つのみで、他の分野でも貰っていません。
別に韓国語と日本語を比べる必要はないし、日本で誰もそんなことをする人はいませんが、何でも日韓を比べないと気がすまない韓国は、言葉もまた比べて日本語が野蛮だと言うのです。韓国人が自国のあれこれを褒め称えるのは自由ですが、彼らの精神性の特徴の1つは褒めるために相手をけなすのです。
今回はそれに見習って、日本語を上げるために韓国語を下げてみます。というのは冗談で、比較対象があれば論じやすいのは事実です。
その野蛮な日本語で、なぜ文学賞を得るのか、といえば野蛮な言葉なので翻訳でも伝わりやすいから、ということなのでしょうね、韓国に言わせれば。世界最古の長編小説「源氏物語」もその野蛮な日本語で綴られているわけですが、韓国語がそれほど至高の言語ならなぜ、古い文学作品がないのでしょうという問いかけは意地が悪いかもしれません。
ハングルを編み出した世宗大王は「愚者のための文字」と言っているのですが。
漢字を使いこなせない民のために、表音文字を与えたのです。
意味ではなく、音のまま書く。全文、ひらがなか片仮名で書かれた文章みたいなものです。読みづらいでしょう? 意味が一瞬では掴めないし、まして朝鮮語には同音異義がやたら多いのです。同音異義の多さも言葉としては、さして高級ではないということでしょう。
同音異義語がやたら多く、本来は漢字の補助がないと正確な意味が伝わらないのですが、漢字の使用には反対が多く科学書ではハングルに添えて英語が併記されていて、英語が読めないと科学書はお手上げなのだそうです。
たとえばハングルで연패(ヨンペ) という言葉がある。
この意味するところは、連覇=연패(ヨンペ)
連敗=연패(ヨンペ) 、なんと同音異義も正反対の意味を持つのです。
受け売りでハングルに自信がないので、辞書機能でしらべてみたら연패は、ヨンペで連覇、連敗双方の意味があるのは事実のようです。
前後の文脈で判断しながらの読解となるのでしょうが、漢字なら一発ですね。
外来語やオノマトペ(擬声語・擬態語)をカタカナで表し、やまとことばの地の文を平仮名で、要所の単語を漢字で表現する、日本語のキャパの柔軟性と大きさを、改めて思います。
漢字の制限などは児童の負担を減らすと考えられているようですが、子供時代の脳は大人が考えるほど貧弱ではありません。字を制限するということは、脳のキャパを制限するということなのです。
非常にズケズケ言ってしまえば、日本人にノーベル賞受賞者が多く、韓国には頭脳には関係ない平和賞以外にいないのは、言葉の貧富によるのではなかろうかと思われます。
人は思考するとき脳内でも、言葉を用います。その言葉が貧しければ当然発想も貧弱になります。それはどの分野でも。科学もビジネスも発想は、言葉でなされます。
「ハングル 同音異義」で検索をかけると、おびただしく例が出ます。
中には、同音異義も三種類にわたるものもあるから、大変です。
たとえば、
소수 翻訳機能ではソースゥと聞こえますが、意味は「素数」「少数」「小数」です。「素数」「少数」「小数」と同時に翻訳機に打ち込んでみたら、どれも同じ소수が出ます。
이상 イーサンと聞こえるのですが、「異常」「理想」「以上」。
文脈を辿って読むにしても、異常と理想が同じ意味では、そこで、瞬時つまずきますね、咄嗟に意味を考える時間が必要です。
有名な話ですが、放火と防火が同じハングルなのです。
靖国放火犯が、韓国系中国人でしたが、この犯人の記事をハングルで読むと、防火か放火か一瞬わからないという・・・落語みたいな話でしょうか。
放水と防水も意味は正反対ですが、ハングルでは同じ。
韓国人の、日本人には解りづらいとっちらかった・・・・失礼、複雑な思考と感性も、ハングルの混乱ぶりから来ているのでは、というのはジョークですが。
もう1つ有名な話では、発注書の混乱があります。韓国の高速鉄道の枕木15万3千本が、全て不良品だったことがあり、これは「防水」を「放水」と読み違えたことによる、誤りであったとか。これに類する混乱は、大小日常にあるのではないかと、想像されます。
韓国人の大雑把さを表す言葉として、ケンチャナヨ(괜찮아요)というのがありますが、心配しないでとか、もっと砕ければ「ま、いっか」というほどの意味だそうで、これだけ読み違えの多い言語を使っていれば、「ま、いっか」と大らかに構えないと、ノイローゼになりそうですね。
そして、韓国人の韓国人たるところはそんな不自由を強いられながらも「韓国語は世界一の言語」と胸を張るのだから、凄いです。
ややもすれば自虐の自己否定に傾きがちな日本人は、見習うべきでしょう。
中国も、漢字の簡易化により漢詩を読めなくなっているそうです。レ点を発明などして、読み下し文を教わった日本人のほうが、読みこなせるそうです。
言葉の簡易化は継承されるべき文化の断絶をも生み、ろくなことはありません。
日本も心すべきことでしょう。言葉に簡略化を求めてはなりません。
それは精神性の高さと深みをも失うことです。
昨今の若者の言葉の貧しさ。これは真剣に憂うべきことです。国語は国の要でもあれば、頭脳のレベルを既定もします。感受性にも影響します。
ついでに、余談を挟んでおくと日韓併合により、日本は韓国から言葉まで奪った、とよく言われ、日本人でさえ信じている人がいるのが困りものですが事実は逆で、それまで貴族階級が寡占していたハングルを一般に民衆に広め、驚異的な識字率アップに尽くしたのは日本の朝鮮総督府です。
初の朝鮮語辞典を作って与えたのも日本。福沢諭吉といえば「脱亜論」ですが、その福沢は、漢字とハングルの混交文を編み出しました。
最初からアンチ朝鮮だったわけではなく、当初は歩み寄ろう、理解しようとしての姿勢が、ハングル漢字混交文だったのでしょう。
その福沢が匙を投げた、その気持もまあ申し訳ないが私も解らないではありません。
というわけで、言葉を奪うどころか与えたのは日本なのに、言うに事欠いて、全く逆のことを言い日本を責めるのは、これもまたありがちなことではありますが、いちいち反駁しないと嘘が定着して、日本人まで信じこんでしまいかねません。
以上、日本語を褒め称えているわけですが、しかし「豊葦原瑞穂の国は言霊の幸わう国」というのは、実感として事実だと思う者ですが、1つ弱点があります。
それは、これだけ言葉に秀でた国なのに、中国から文字を貰うまで文字はなかったのか、という弱みです。負け惜しみではなく、私は腑に落ちなかったのです。
それが、ああこれかと思ったのは「神代文字」、ヒエログリフの存在です。
「トンデモ説」として排除する人もいますが、私はあり得ただろうと思っています。漢字がもたらされ、それがサクッと平仮名、カタカナへと変幻自在に組み替えられ、もはや昔から手の内にあったごとく使いこなし、シェークスピアに先駆け、女性が世界最古の長編小説をスラスラと記述したそのことを思うと、その基板になる文字文化はあった、と思えるのです。
といって、関連書籍を取り寄せていつか勉強をと思いつつ、日ばかり過ぎている状態なので、胸を張ってそうだ、というべきことでもありません。
ただ直感としては、漢字に先立つ日本の文字ありき、と思い込んでいます。