ある寡黙な年配のスターさんが、久々に現場にいらしたら声帯を普段使ってないので声質が落ち、セリフが聞き取りづらくなっている、というのを聞いて、
たまに人前で話させて頂くことのある私も、おっとっと、まずいなと思ってお風呂の中で一人カラオケをやるようになった話は書いた。
おかげで声帯がだいぶ丈夫さを取り戻し、音域も広がった。
曲はその時々だが、韓国の俳優さんと仕事をしかかったり、自分のドラマが韓国で映画化されそうになったり、結局いずれも実らなかったが、その時に備えて「釜山港へ帰れ」を韓国語で覚えたりした。打ち上げでカラオケは、当時つきものだったから。とりわけ、連ドラの場合は必ず二次会あたりからカラオケだった。歌手も出演するケースがあるので、プロ歌手の前で歌うのはなかなか勇気がいる。
歌舞伎役者さんたちが集まるところに和服を着て行かないのと同じ。
やっとこの頃、どうせ素人、仕事で毎日着ている人と較べてもしょうがないし、と
今なら図々しく自分流で着ていけるかもしれない。
「徹子の部屋」で長谷川一夫さんの回顧放送をやっていて、着物の着付けをわざとゆるくしている、というお話をされていた。そのほうが、江戸前の粋なので、と懐手した手で顎を触ってみたりしていらした。
といって、きちんと着付けできない素人が最初からゆるいのと、プロが崩すのとは違う。それに、粋だからといって懐手した手で顎を撫でてみても、今時笑われるだけかもしれない。
長谷川さんは男としての美を追求された方で、流し目は凄かった。でも今、あんなのやったら、というより私がやったら、眼科へ行けと言われそう。
足や手を長く見せるための手甲脚絆のデザインまで考えぬかれ、写真撮影の時は、膝に白いハンカチか扇を広げていらした。
白の反射で顔が綺麗に見えるように、ライティングが今ほど発達していなかった時代の長谷川さんの編み出した技であった。
歌舞伎から映画に移られる時、暴漢に襲われて片頬をざっくりカミソリで切られ、傷跡が後々まで残った。それを長谷川さんは丹念なメークで隠すうち、特有のメーク術を体得されたようである。しぐさの一つ一つも開発して行かれた。
言ってしまえば、手も足も長くはないお方であったからこそ、衣装や動きでカバーされ、傷跡を逆にバネにして美しい男をご自分で作り上げられて行った。
負を正に変える過程が、たぐいまれなる美男スターを作り上げたのだった。
市川雷蔵さんもぞっとするくらい、色気のある美しさであったがたまたま街で拝見した素顔は・・・・。落差と言っては失礼だが、化粧術プラス、化粧映えのするお顔立ち。それと特有の張りのある声。レスリー・チャンさんも、素顔とスクリーンとの落差がある方だった。
当時の俳優さんたちは声も大事になさっていたし、滑舌がよかった。
現代では声と滑舌が良すぎるとリアリティが薄れ、声が求められたのは、銀幕の世界のことである。
いや、脱線した。一人カラオケ、韓国語版に戻す。
数少ない取り柄のうち、聴覚はいいのでチョー・ヨンピルさんの発音は真似られる。私の韓国語版「釜山港へ帰れ」は悪くないと思うが、披露するチャンス無く来てしまったので、評価は解らない。
日頃韓国批判ばかりで、単純に嫌韓分類されても心外なこともあり、書いてみた。
自分と同じ仕事の分野の人で、数は多くないがリスペクトしている人々はいる、と時々釈明している。
お風呂の一人カラオケでは、自分が作詞した歌は歌わない。ヒット曲もあるが、私の声には全然合わない。
カラオケで思い出すのは、三田佳子さんとの初対面。プロデューサーがご主人の高橋さんだったが、ひょうひょうとして面白い方なのだが、大阪のクラブに三田さんと連れて行ってくださった。脚本家としては駆け出しの頃である。
高橋さんが、いきなり歌って、とおっしゃる。ドラマの書き手として、どれだけ情感があるか、判断したいと。えー、脚本家としての資質を歌で採点つけられるんかい、と思ったが素直に歌った。
合格だったのかどうか、とりあえず三田さんと組んでの5回連続NHKドラマ「家族合わせ」はこうしてスタートした。視聴率もよかった。それ以来の三田さんとの公私に渡る長いお付き合いを、その頃は想像しなかった。
歌もだが、何にしろ日々の訓練が必要なので、それはバレリーナもピアニストも同様で、物書きだけが例外だということはない。
というわけで、実は文章の感覚が落ちないようにブログは極力毎日書くようにしている。政治外交のことだけでは息が詰まると思い、時々他のことを書こうとするのだが、さほど劇的に暮らしているわけでもないので、こんなことしか綴れない。お退屈さまでした。