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Channel: 井沢満ブログ
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神宮の森で思惟したこと

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車を降りた途端、森から流れてくる空気が清浄な水のように鼻孔を洗い、胸腔が鳩の胸のように広がる心地がする。
お正月の武道事始めに続いて、体育の日の明治神宮は至誠館の演舞に荒谷卓館長よりお招き頂き、参加した。

荒谷館長は、最も挙措が美しい日本の男だと私は思っている。
動作の一つ一つにメリハリがあり、それでいて流れるように身体を運ばれる。

元陸上自衛隊の「特殊作戦群」初代群長でいらっしゃる。
荒ぶる男でいらっしゃるが、普段は柔和でわたくしに限らず、若者でも
お席に近づくときちんと立ち上がりご挨拶なさる。

演舞の行われる道場に座すと、森特有の静寂にひたひたと包まれるが時折、上空を流れるジェット機の音が小鳥の声々の合間に遠雷のように聞こえて来て、ここが首都のただ中にある人工の森であることを思い出させる。

聞けば百年後を見据えて、自然に森が形成されるよう厳密な計算のもとに樹木が植えられ、その結果百年を待たず、七十年目に都会の中に忽然と森が現れたというのだから、携わった日本人たちの英知と技術に驚く。

わたくしは客の椅子席だが、武道を学びに来ている門人たちは硬い床に正座、中には西洋人もいて、だが背筋をすっと伸ばして身じろぎもしない。そして、未だ就学前かと思われる子供たち。神座に向かい修法が修せられるつど、神官とともにお辞儀をするさまが、抱きしめたい衝動にかられるほどの愛らしさ。中韓の垂れ流す日本を貶めるための虚偽を、この子らに引き渡してはなるものか、と思う。
何をこれ以上、日本が謝りつづける。

中国も韓国もまっとうな国ではない。と、わたくしの立場で言うのも剣呑なのだが、それを言葉で飾る気はもう失せた。彼らに正義はない。国家としての彼らに良心は、ない。あるのは、ならず者の心だ。あと数百年、あるいは千年彼らは変わらない。悪人で詐欺師だとそれを承知で付き合うなら付き合うしかなかろう。
国民の個々を言うのでは、むろんない、国家総体としての性格のことである。

武道も「道」の字のつくごとく、日本では剣の練磨さえより高き境地にたどり着くための道筋なのであり、韓国がいかに自国発祥を言い立てようが、華道も茶道も彼らに決定的に欠落しているのが、この「道」を極める姿勢であろう。
道を知らぬから、刀剣を持ち込めぬ狭い躙口(にじりぐち)の意味を知らず、茶道の席に魔法瓶を持ち込む。釜から立ち上る湯気のかそけき音、松籟も茶の席の静寂の演出に必要なのだとは、彼らには思いもよらぬ。
歌舞伎で、雪の日の静寂を表すのにトロトロと低い太鼓を打ち鳴らす、上質の感性はない。音を添えることで静寂を表現する日本の優れたパラドックス。

いにしえの日本の武将たちは茶を喫して戦場に赴いた。
磨きぬかれた床を滑る演舞の足取りもさながら、お能であった。
静寂と武の激動とが同時に座するこれも、日本の逆説の美意識であろう。

五輪を機に否応もなく外国人労働者が導入され、わたくしはそれもあり東京五輪を全く歓迎しないのであるが、海外から人を迎えるなら迎えるで日本人としての矜持を高く掲げておかないと、さなきだに戦後壊れに壊れ続けている、よき日本の姿が崩れ去る。

排斥主義者ではない。かつての日本人はおおらかに、海外からの客人(まろうど)を受け入れ、客も日本という家の家風に敬意を表しゆったりと馴染みながら
いつしか、この国の人となって行った。

ラグビーの選手たちがそうである。君が代を共に歌い日の丸を共に仰いでくれるなら、迎えるにやぶさかではない。むしろ嬉しい。道場の床に正座し、上座に向かってお辞儀する西洋人も然り。

単に労働力の歯車の一つとしての海外からの大量移民を忌む。
「国防動員法」を考えれば、これ以上中国人を入れ込むことは、
人民解放軍の潜在的兵士をわざわざ、呼び入れるに等しい。
あの国が労働者に紛れて、何で工作員を寄越さずに済むものか。

GDPでなぜ上位に居続けねばならないのか。気品と誇りに満ちた極東の美しい国であり続けられないのか、とはやはり思う。日本には優れた頭脳が導き出す技術も知識もあるので、さして貧乏はしないし、気候温順にして土壌は肥沃、水は清く自給も不可能ではないというのに。蛮族の土足に汚されることを厭う気持ちが、強くある。

国際化は時の流れならば仕方がない。抗えない時の流れであるなら、流れに流されぬ日本の姿勢を保っていたい。

こういうことを口走る自分に驚きつつ、しかしこれはもう一生の闘いであろうと、演舞の気合の声を聞きつつそう思った。時にもう投げ出したくなることもある。
わたくしが生のある間、日本が壊れ果ててしまうわけでなし、後のことは知ったことか、と戦う相手の余りの巨大さ執拗さに根負けしそうになるのである。
だが、粛々と息果てるまで闘って行くしかない。

直会(なおらい)の前に、教育学者・高橋史朗氏による講演があり、1時間半にわたる淀みのないお話ぶりに、私など拙劣な話術しか持たぬものは感心するばかりだ。

高橋氏は、南京大虐殺の嘘に続き、慰安婦がユネスコに登録される懸念について述べられたが、日本はここで何らかのけじめを付けぬと、永遠に中韓の捏造にやられ続ける。外務省には、ヘタレしかいないのか。日本人としての気概を持つ者はいないのか。戦後GHQに飼いならされた家畜しかいないのか。外相は日韓友好祭りに出かけ、首相夫人と韓国寄りの宮家とビビンパの大鍋をにこにこと、かき回しているのが仕事なのか。

外務省にも気概を持つ人達がいるのは知っていてもしかし、ご承知のような体質なので、激越なことを言いたくなる。このところの、中韓二カ国のやり口があまりにも汚いので。友好など考えないほうがいい。彼らに日本と友好する気は皆無なのだから。いかに、上手にしのぐか、それに専心したい。

直会を終えて、皇室のお宝を収めている博物館を除く。あれこれ興味深く見ていたら「ヤフオクは一体どうなったんだろ、今月が時効だよね」というひそやかな声が耳に届き、胸が一瞬縮かんだ。真相は奈辺にあるのだろう。

帰宅の電車の中で、元自衛隊の落下傘部隊の方とご一緒だった。荒谷館長もそうだが、荒ぶる訓練をして来た男たちで現場ではさこそだったろうと思われるが、日常の挙措はむしろ静かで穏やか。これが日本の武人というものだろう。
戦争反対などと、荒々しい言葉で罵る連中のほうが、殺気立っている。

隊にはヘリから片手づかみにロープで地上に降りつつ、拳銃を撃つ訓練もあるそうで、館長などは実際にパンパンと撃ちまくっていたという。いや、こういうこと書いていいものだろうか。時効ということでご寛恕願うか。
元自衛官の方とは憲法の話になり、「自衛隊は違憲として欲しいのです」と
意外なことをおっしゃる。しかし、その後の言葉を聴いて即理解した。

「自衛隊は国民の九割が肯定しています。その自衛隊が違憲だとなれば、憲法を変えざるを得ないではないですか」

砂川判決は諸刃の剣ですね、とわたくしは応じた。自衛隊は合憲などでありはしない。しかし、必要だからこそ、あれこれ言い訳しつつ運営して行かねばならず、数秒の判断で生死が決まる戦場では九条の縛りで、一番機が撃ち落とされ日本人が死なねば、応戦できないのだ。これで侵略を防げと言われている理不尽が平和憲法なのである。

海外ではわざわざ「自衛隊」等とごまかしは言わず「軍隊」として紹介されることも多い。だって、軍隊なのだから。荒谷館長もご挨拶の中で、「軍では」「軍人として」と淡々とおっしゃっていた。

元自衛官の方はこうも言った。「国の守りに命を捧げるのは基本ですが、しかしたとえ、片足をなくそうと家族の待つ家に帰るのが願いであり、務めなのです」と。

こういうことを書くと、右翼の戦争肯定のと言いたい手合いがいるのだろう。
しかし、わたくしはいたって軟弱の徒であり、平和が何よりいい。
人類がいずれ進化して、国境などなくてもいい世界を夢見る程度にはお花畑でもあり、戦など、生理に反する。殺すのも殺されるのも嫌悪する。差別したくも、されたくもないからレイシストなどでありはしない。

しかし、戦争は平和と叫んでいれば起こらないということは絶対にない。
差別心は自ら持たずとも、差別は世界にある。
中国がひとたび侵略の意図を持てば、九条などトイレットペーパに書いた
落書きほどの力も持たぬ。

安保法案というのは、自衛隊を合憲にするための、ようやくの第一歩。
殺し殺されたくないからこその、法的伏線張りなのだ。

日本にだけ生息していて、海外にはいない生き物。
それは、日本人でありながら日本を損なうことに喜びを感じる、戦後GHQが産んだ奇形種日本人もどきである。

南京大虐殺も東京裁判という虚構裁判が産んだ幻影である。それに奇形腫日本人が乗った。慎重に薄紙をはがすように、それらの嘘を剥いでいかないと、原爆投下に実は罪悪感を持つ米国が暴れる。

能のように静かに、しかし狂いなく天地の理に即した動きを。それが本来の日本人であろう。


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