「花嫁の父」「母。わが子へ」と続けて、中国のテレビ祭でノミネートしてもらって、
「花嫁の父」のとき、上海に招待を頂いて飛んだのでした。
その時、上海の空港で台湾の人たちの税関が、海外でも国内でもないところに
設えられているのを見て、「なぜ?」と通訳兼案内のお嬢さんに訊いてみたら、
「台湾も中国ですから」と、私の質問をどう受け止めたのか核心のない返事。
それ以上、突っ込むと空気が剣呑になる気がして口をつぐんだのだが、昨日「再会の食卓」という中国映画を見て、そのことをまた思い出した。
物語のベースには台湾と中国の歴史があり、勉強にもなった。
中国共産党に敗れた国民党が、台湾に退却したのが1949年。戦後
4年目、日本もまだ敗戦後の混沌と飢えに喘いでいる頃である。
国民党のほとんどの軍人は中国本土に妻子を残したまま、台湾に去り
数十万人が、本土と台湾とに別れ離別状態になった。
彼らが再び中国の地を踏むのは、1987年、台湾当局が退役軍人の本土帰省を許可した年だった。
映画では、身重の妻を本土に残したまま台湾に退却した夫イェンションが
元の妻、ユィアーに会いに来る所から始まる。
イェンションは、台湾で再婚、子もなすが妻を3年前に見送ったという設定。
そのイェンションは、ユィアーに台湾に来て、共に暮らして欲しいと願うのだ。
だが連れ子で再婚したユィアーは、二番目の夫ルーとの間に子供たちがいて、孫もいる。
突然、現れたイェンションに対する、ユィアーの子どもたち、夫ルーそれぞれの葛藤、苦悩、ユィアーの気持ちの揺れ。
セリフでは説明しないが、ユィアーが再婚したのは、子供一人抱えて暮らしのためであったということも、人生を重ねている者には察しられる。
そして、熱愛の挙句僅か一年間しか一緒にいられなかったイェンションに
ユィアーの心がまだあろうことも。
恋したことはない現在の夫と、その間に出来た子たちとの暮らしの中でも、
ユィアーは生涯でたった一人恋したイェンションの面影を青春の宝物として、
何度も何度も思い返していたであろうことも。
恋こそは人生の花なのだから!
映画の中でのイェンションが「台湾人」と呼ばれていることに、私は興味を持った。
台湾は中国だと言い募りながら、しかし本音は自分たちとは価値観も
メンタリティも異なる半ば外国人なのではないだろうか。
余談に逸れるが、日本の当地は朝鮮に対しても台湾に対しても
ほぼ同じであったのに、韓国は日本を痛罵、台湾は日本をなつかしみ
感謝する。
慰安婦の、南京大虐殺のと中韓の大嘘にも触れたくなるが、今日は
映画を題材に、感じたことを書いてみたい。
ほぼ40年ぶりの元夫婦の対面は、無言で描かれる。ただ見つめ合う。
大人でなければ、解らない描写。二人それぞれ親の反対を押し切っての
熱愛だった。瞬時に当時に心情がワープする両者・・・・と読み取るだけの
成熟が観客にないと、このシーンに限らず物足りないだろうし、理解が
届かないのではないだろうか。セリフでは描かれない「無言」が何かを
語っているような映画である。
食卓をはさんで、延々と会話だけのシーンなど、こけおどしのない
日常描写は、小津安二郎を思わせる。
ベルリン国際映画祭で賞を得た作品だそうだが、あちらの成熟した観客には好評だっただろう。この映画が汲み取れるのはおそらく50歳を越えてからだ。
しみじみと深い映画であった。いい映画というのは、一つの人生を生きたような感慨を心に残す。
私は早世を望んでいたが、普通に生きていて良かったかもしれないと
思うのは、こういう映画をちゃんと解るようになったことに対してである。
同じく世の中の仕組みも政治外交の基礎も、やっと輪郭が見えるようになった。
私は韓国映画もドラマもウェルメイドのものには、普段の韓国批判はさっぱり
脇に置いてオマージュを捧げるにやぶさかではないが、考えてみれば
娯楽映画では秀逸なものがあっても、アートとしての映画とドラマには、
まだお目にかかったことがない。
中国という国の成熟度が、静謐を湛えた映画をも産みだす。
孔子や孟子のいた時代の人種と現在は違うとは思うし、文化大革命で
文化の糸は断ち切られたとは思うのだけど、それでも営々と先人が
築き上げた文化の厚みは、しぶとく残っている。
韓国と比べるとそれが如実である。
そして、中国の佳作を見るたびに思うのだが、作品を通してはこれほどよく
彼らの心情が理解できるのに、いざ局面が変わるとなぜあそこまで残虐に
なれるのだろう、と。
戦争という極限状態で、日本人の残虐性がなかったとは言わない。
だが執拗なまでの暴虐性は、日本人にはない。中国人の犯す犯罪の
内容を見れば、その民族性が今薄れているわけでもない。
韓国映画やドラマにアートはないが、ウェルメイドはある。中国のある作品のように、淡々と静かに物語が進行して行く深みはない。どれほど彼らが歴史を作り上げ語っても「若い」のだ。底が浅い。
やたらテンションが高く、怒鳴り合うのにやや辟易とする以外、韓国映画や
ドラマの人物の心情が全く解らないということもなく、相当心情は共有しながら見る事はできる。
しかし一転極限状況になった時の彼らの本性はやはり日本人とは基本で異なるなあ、と思う。文化的には韓国より付き合えるが、油断できない相手という意味では同じだろう。日本人のお人好しでは、酷い目に遭わされる。
「上海語は覚えてる?」と訊くユィアーに、「聞くことはできるが、喋ることは出来ない」と答えるイェンションのせりふに、中国が多言語国家であることを改めて思う。とすると、映画で使われている言葉は北京語なのだろうか。
多言語があるというのは、要するに多民族国家、寄せ集め国家だということである。だからこそ、一つに束ねるのに「日本」というでっち上げられた、悪者の国が要る。
韓国は、南北に分断されたコンプレックスの国であり、自らに誇りを持つため、そして本当は結束力の希薄さが、日本という悪者を必要とする。
日本こそいい迷惑だろう。
と言いつつ、今は「僕の彼女は九尾狐」という韓国連ドラを見始めている。
私は韓ドラの作劇法は嫌いではない。
主演の、イ・スンギのひいきでもある。
私の好きな韓国人男優は、コン・ユ、イ・スンギ、女優はキム・ソナである。
中国韓国のドラマと映画に共通して感じるのは、食事の際のお行儀の悪さだ。
*備考 中国国民党 Wiki
1919年10月10日、孫文が中華革命党を改組して結党した。
ポツダム宣言(第二次世界大戦終結)に基づいて1945年10月25日に中華民国が台湾を編入し、中国共産党との内戦を開いた中台両地域統治時代を経て、1949年10月1日に内戦で敗れた中華民国政府が台北に事実上遷都した1949年12月7日以後は、台湾を地盤とした政党として存続し、台湾への土着化(台湾化・本土化)を経て今日に至っている。