もともとこの世に生きている事自体が大して好きではなく、早く終わらないかなあと、指折り数えて今日までこの世にあるのだが、あたかも神が願いを聞き届けてくれたかのごとく、近年の歳月の足取りの速さは駆け足から、ゴール間際に全力失踪になった塩梅。
むろんこれは神の恩寵などではなく、加齢による歳月のスピード感アップなのだが、嬉しくありがたい現象で、しかしなぜ加齢で歳月が疾(と)く過ぎゆく?
予見される未来の重さがそこにはないので、歳月の足取りは軽々となる・・・というのが私の見解なのだが、はてさて?
大脳生理学的なことまでからむのだろうか?
例えば小学校の夏休み、40日間(だった?)が永遠にも等しく感じたあの暑かった歳月。カブトムシの動きを見ている束の間さえ、そこには永遠がこもっていたように思う。
・・・・・そうか、終点まだ延々とまだ間があるので、その時々をゆったり味わっていたから長く感じたのかもしれない。
あるいは子供の純粋な直感で、魂の永遠性を悟っているからなのか?
今はもうゴールが見えているので、感覚の足取りが速いのかもしれない。
年賀状は最小限に、いつの頃からか数は絞ってなお絞りたいけれど、年末のこの慌ただしい時になんでまたお年賀の習慣? しかし旧知の人の息災を知るのは嬉しいので、文句を言ってはいけないか。自分が書くのが億劫なだけの、わがままなのであろう。
年末行事として、朝っぱらから「流行語大賞」とやら、どの局を見てもやっていて、辟易。これ、確か通信教育の会社の私的行事であるはずではなかったか?
なんで、一社のPR事業を各局延々と取り上げるのか、CM料に換算したら莫大なのだけど。
それにTOP10に入った言葉の2つまでもがある特定立ち位置へのアンチ政治的プロパガンダであることに、ひっかかかる。ある一定の政治的立場の連呼に相応しい各局いっせいの報道ぶりでもあることに、違和感を覚える。
私は、各局各紙一斉に報道することに対しては、とりあえず身構えるへきがあるので、なおさらなのだろう。
それにしても、審査委員長である人の普段の政治信条にまつわる言葉が
2つもTOP10にあることに、疑問を感じる。他の審査員の顔ぶれも、
明確にある特定の立場にあるお方が2人も。
流行語大賞は、政治関連は抜いたほうがよくないか。これでは放送コードで守らねばならないはずの「中立性」が損なわれる。
さて話題一転。
「外科医有森冴子」をテーマにシンポジウムめいたものが開かれる。
というごとき、堅苦しいことでもなさそうだが。
靖国神社における追悼国民集会にいらした方には、私の下手っぴな
話でご迷惑をおかけしたが、今度は三田佳子さんはじめ関係者と
ご一緒、司会もあるので、大丈夫かもしれない。