「子ども」という表記に代表される、交ぜ書きが気持ち悪く、
何とかならぬかと思っていたら、文科省が「子供」でよいと、
公式見解を出したようで、何よりである。
「お供え」ではない、とか「お供」ではない、とか世迷い言を
言う人達は、何を考えているのだろう。お供えにも、お供にも根拠はなく、
単に「イメージ」の問題、ないしは妄想の領域。
とりあえずは、記事。
http://www.j-cast.com/2013/09/01182664.html?p=all
(抜粋)
「子ども」と「子供」、書き方としてはどちらになじみがあるだろうか。ここ数年、差別助長を防ぐため「障害者」の表記を「障がい者」に見直す動きが広がっているが、実は「子供」も「差別的な印象を与える」として長らく敬遠されてきた。
行政でも「子ども手当て」「子ども・子育て支援法」など「子ども」が優勢だが、ここにきて文部科学省が「子供」表記の統一に乗り出した。
略
「子供は熟語です。熟字訓というもので、いわば当て字です。コドモという音は万葉のむかしからあります。(中略)江戸時代にコドモに、子供という字をあてたようだ。子供は当て字で二字熟語です。子ども、こ供とは書けない」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
障害者を障がい者と書く、その気分は分からぬでもないが、お供え、お供と同じく「イメージ」のレベルであり、何もハンディを持たれた方々が、世の中の害になるという意味でないことは自明だし、「障害」が1つの単語である。
そして「障害」の「障」がよくて、「害」が悪いというのも、理路の通らぬ話。
「障」は「障り=差し支え。じゃま。妨げ。支障」だから、害を使わないという発想で言うなら、障も使えぬ。
「障害物競走」という言葉に、何の差別も侮蔑もない。
拉致をら致、などと書くことにどんな意味があるのか。日本語を幼稚にするための策略はGHQの日本弱体化政策の一環であり、当用漢字という名の漢字制限もその一環で現れた「言葉狩り」に過ぎない。
旧字体に戻せとは言わぬが、制限した漢字の復活はあとう限り望みたい。
また固有名詞としての旧字体は尊重したい。「靖國神社」などのごとく。
私が文部科学大臣になったら、という夢想を先に書いたのだが文部省唱歌の復活もやりたい。今どきの歌はあってもいいが、古文を交えた雅(みやび)な歌詞がある唱歌は伝え続けたい。
蛙をなぜ、かわずと歌うのか、その意味を教えたい。夕日ではなく、なぜ入り日なのか。入り日にはゆるゆると沈む陽の「動き」が添うから。
菜の花畑に入り日薄れ
優れてビジュアルな表現。原色ではない日本のあえかな、色彩。
朧月夜にそぐわしい言葉の選択の感性を無くしたくない。
村落ではなく、里回(さとわ)。
さとわの火影も森の色も さながら霞める 朧月夜
どうかすると、朧月という言葉が息も絶え絶えになりつつあるのではないか。
私は夏空が好きで、始終見上げているのだが、目の手術以来金星が鮮やかで、
「月と金星が寄り添って、冬空の佇まいが優しい」
と信号待ちの間空を見上げてつぶやいたら、傍らの年若い知人が「空の佇まいですか、なかなかいえませんね」と感心してくれて、驚いた。「空の佇まい」ぐらい、普通言わないか?・・・・そうか、言わないか・・・・。
「おみ足お気をつけあそばして」も、言わないか・・・・。
「車が来ましたけど」ではなく「お供が参りました」と、格のある料亭では言っていたが、今はどうなのだろう。
稀代の名女優でいらした杉村春子さんにお会いした折のこと、杉村さんが去り際に残した言葉、
「ご機嫌うるわしゅう」
去りゆく裾捌きの衣擦れとともに、かぐわしい風のようにその言葉が耳元を
吹きぬけた。
がさつな言葉が日常とテレビの空間を耳障りに飛び交い、たおやかなやまと言葉は息も絶え絶え。
文科省の大臣になりたい、という妄想を綴ったら某やんごとないお方の通われる学校での、偏向教育ぶり、そのリークを頂いた。
それを、国立大系の小中高に通った若い知人に言ったら、「国立系って、皆そんなもんですよ」
そうなのか?
「でも、生徒が賢いんで心得てますけどね」
と、こともなげなので、
「でも相手が小学生なら偏った知識と史観が刷り込まれないか?」
「大丈夫ですよ、国立系の子、頭いいし。僕達クラス会にも、先生は呼びませんもの」
と、楽観的な返事なのだが・・・・実情を知らぬ私は、まだ不安なのである。
受験用に必死に、妙な知識は頭に詰め込むのだろうし。
たいそう学校の成績はよろしかったであろう、大出版社の編集者にかなり
自虐史観の持ち主がいらっしゃるのだけど?
誤変換他、後ほど推敲致します。