タイトルは「我が母の教えたまいし歌」にかけたのですが、この曲はチェコのドボルザーク作曲です。
この曲名を教えてくださったのは亡き久世光彦さん(時間ですよ、などの名演出家)でした。加藤治子さんのお引き合わせで、一緒にドラマを作ろうとしていたのですが、私が当時売れっ子になり始めの、生意気盛りで久世さんの心情を損ねるようなおごった言動あり、ご破算になった関係なのでした。
久世さんからは叱られましたが、ありがたいことに思っています。
この世を去られてから、久世さんのドラマにおける美意識とすっ飛んだ
感性が慕わしいのです。
久世さんが、私と組んで作ろうと考えていたドラマに「我が母の教えたまいし歌」を使おうとお考えだったのです。
久世さんも、言葉における美意識の高い方でした。
セリフに対する感性の鈍い演出家や役者というものは、いるものです。
生涯組みたくない相手です。
それぞれの単語を組み合わせた際の、リズムや調べとしてのセリフへの感性がないのです。「音」としての言葉への聴覚が鈍い・・・・・。
前置きが長くなりました。
まだ幼いお子様をお持ちのお母様からのコメント欄へのご相談がありました。
日本語を母子ともども磨きたいので、何か良い方法はないであろうか、と。
難題で考え込んだのですが、考えすぎても延々と膠着状態であろうし、とりあえず解るところからお答えしていき、今後も随時触れて行くのがよかろうと思いました。
お子様の年齢がおいくつなのか、解らないのですが、とりあえず考えられるのは読み聞かせですね。お子様が添い寝の年齢であり、かつ時間にゆとりがお有りなら、読み聞かせこそは母子の最も芳醇な時間であり、最大の思い出になろうかと思われます。
縁起でもないのですが、いずれ母なる人の墓前に額づく時きっと耳をよぎるのは、読み聞かせの声であろうかと思われます。
子守唄はもう、歌わないのでしょうか。もし絶えている習慣なら、残念なことです。それこそ、わらべ唄は日本語の宝庫です。意味がわからなくても、またその歌詞を忘れても、子供の心に沈む宝物となるでしょう。
子供に読み聞かせたい絵本や童話、というのは容易に探せるのですが、さてそれが美しく正しい言葉で書かれているか、というのは私には解りません。
親御さんがご自身で判断なさるしかないでしょう。
ただ、おすすめしたい童話があるとすれば、芥川龍之介の「トロッコ」と「杜子春」です。
日本語の最大の使い手たちは、一気に現れ一気に去りました。
芥川龍之介、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫。
この四人で日本語は絶頂期を迎え、その後は凋落の一途です。
かろうじて、名手の名にふさわしいのが、田辺聖子。日本語の名手というより、その独自性で言えば開高健。
その後、日本語を書ける作家が出ていません。
僅かにエッセイスト林望に、名残を感じたことがあります。
歌謡曲では、阿久悠、それと山上路夫。
いまどきの歌で感性のいいのはありますが、日本語となると・・・・いまだ
遭遇していません。
石原慎太郎? この方が作家であったことは一度たりとありません。
随分、昔に美輪明宏さんに伺った逸話ですが・・・・
三島さんが余り、石原さんを意識するので美輪さんが、
「三島さんみたいに精巧な建造物を文章でお建てになられるお方が、なぜあんなバラックしか建てられない作家を意識なさるんでしょう?」
三島さん答えていわく「あいつ、俺より足がなげえ」
・・・・・・石原さんはおそらく、三島さんが対等に付き合ってくれていたのは、自分の文学的才能を認めていたからだ、と今でも思い込んでいらっしゃるのかもしれませんが、実は股下なのでした。石原さん、文章が雑駁です。
しょせんは三流の物書きであり、かつ政治もしょせん二流で晩節を汚しました。
政治家としては、愛国のいい位置にまで行きかかったのに、残念でした。
いやいや、話題が枝葉に逸れること。
話題を元に引き戻します。
結論を申し上げますなら、お母様ご自身が言葉に対して謙虚であり、また学ぼうと心がけるなら、それはお子様に通じます。それこそが最大の財産ではないでしょうか。7,8歳ごろまでの子供はとりわけ親の心のありどころに敏感です。
しかし、過剰な期待は禁物です。もともと、数字や分析に向く才能の子はいて、その子らが、言葉に興味を持つとは限りません。
それでも、「やらないよりはいい」ので言葉の芳醇さを伝える試みはなさったほうがいいでしょう。100点の成果は得られなくても、ゼロよりは遥かによいでしょう。
親御さんの一つの目標として、「日に一つ、新しい言葉を覚える」を心がけられてはいかがでしょうか。耳慣れぬ言葉を目にしたら、早速調べて記憶する。
半分以上忘れても、年間150程度の言葉は覚えます。
大事なのは言葉を覚えよう、使おう、とすることと「言葉に対する敬意」です。
言葉を大切にすることは、国を大切にすることです。文化を守ることです。
心かげていれば、自ずと普段の言葉遣い、書き言葉ににじみ出ます。
人としての香りのようなものを、身にまとい始めます。
というと、「お上品」をいい言葉と勘違いする人々も多いのですが、伝法な言葉もありで、よろしいのです。要は意識して言葉を使いこなせる人でありたい。
フランス人が自国の言葉に誇りを抱くこと並大抵ではありませんでしたが、最近のフランスは知りません。
私は、詩人では言葉の天才は北原白秋だと思っています。
耽美的傾向から、好みもあるのでしょう。北原白秋、日夏耿之介と、漫画家がある時期、固まってトキワ荘から輩出されたように、詩人も固まって出ています。
翻訳家の文章としては、フランス語における堀口大学、朝吹登水子、朝吹三吉でしょう。
拙文を書くに際して、日夏耿之介の詩をチェックしていたら黒猫を描いた詩の一節に「柔媚」という言葉を見出しました。
小慧(こざか)しい黒猫の柔媚(じうび)の声音(こわね)
パターン認識としての漢字のありがたさで、読めなくても意味のほとんどが察知出来ますね。
デジタル大辞泉の解説
[名・形動]なまめかしいこと。こびへつらうこと。また、そのさま。
「―に近い懶(ものう)さを表わしている」〈芥川・芭蕉雑記〉
黒猫の柔媚の声音、とはまた的確な表現ではありませんか。鳴き声ともせず、声ともせず「声音」としたところに、日本語を使いこなしている人の感性が小さく輝いています。
ちなみに「伝法な」は、
《「でんぼう」とも》
[名・形動]《3が原義》
1 粗暴で無法な振る舞いをすること。また、その人や、そのさま。「伝法な男」
2 勇み肌であること。また、その人や、そのさま。多く、女性にいう。「意気がって伝法な口をきく」
3 無料見物・無銭飲食をすること。また、その者。江戸時代、浅草寺伝法院の寺男が、寺の威光をかさにきて、境内の見世物小屋や飲食店で無法な振る舞いをしたところからいう。
・・・・・・・・これで、今日は私と共に2つ、言葉を収集できました。とうに知っているよという人もいるでしょうが。
韓国では、ノーベル賞の季節になるたびに日本を横目で見て歯ぎしりしたり、強がりを言ったりするのですが、ひょっとしたら彼らのノーベル賞への縁の無さは、言葉の貧弱さから来ている部分もあるような気がします。
漢字をほぼ捨て去ったのが、失敗でした。ハングルはそもそも世宗大王が、庶民の無字を哀れんで、「愚民のための文字」を編み出したのが起源です。
愚者の文字については、昔資料で読んだきりそう記憶し続けているのですが、今一度確認したほうがいいのかもしれません。ただ、表音文字という原始的な文字であることに変わりはありません。
昔、ハングルについては一文を書いたことがあります。
▼言葉が形成する脳 http://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/61e85446d5632270d9a8aabbe2bdfcde
韓国では、日本の物を排斥しながらしかしビールやアニメその他、手放せないものが一杯ありますが、日本語もその一つで彼らはその言葉がもともと日本語であることも今や忘れ果て、母国語として使用しています。
▼韓国ドラマと日本語http://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/f9b8cd1c6e8f3e0e9f92f2f43f73b3d1
韓国の人々の、往々にして(日本人からしたら)道理の通らない、無茶苦茶な言い分も整合性のない言葉がベースにあるのかもしれません。言葉は、論理性や思考、思想の基盤です。
肝心の、言葉において子供を導くためのノウハウは、さらに知識を渉猟しつつ思索を深め、いつかまた書いてみたいと思います。
言葉について日頃、心に止めておくと情報も入りやすくなります。
もう昔のイベントですが、たとえば・・・・
■童謡・唱歌を現代のアーティストがカバーしたCDアルバム「にほんのうた」の完結記念イベント開催!!
http://ascii.jp/elem/000/000/511/511896/
こういうイベントに母子で出かけるのは、素敵でしょう。
若き日の西条八十。好きな一枚です。
隣家の別居中の人妻と不倫したりしてるんですが、この時代の不倫には姦通罪が伴い、双方に覚悟と緊張感があったので今のような「野合」の薄汚さがありません。
不倫にも美意識が欲しいのですが・・・・・。こういうこと言うほうが変なのかもしれません。
*誤変換他、後ほど推敲致します。