明治神宮は至誠館における「武道事始」を見学させて頂いた話は
書いた。
合気道の演武もあったが、演舞で高速度撮影風のスローモーションで
解析的に演じてくださると、小柄な女性が大男を投げ飛ばすのも
なるほど、不可能ではないなと得心される。
私の勝手な想像なのであるが、合気道というのはおそらく
敵対ではなく、むしろ相手に合わせてその力を利用するのでは
なかろうかと。合気というのは「気を合わせる」ことなのではなかろうかと。
ざっと、調べてみたら当たらずといえども遠からずというところだろうか。
合気道の創始者植芝盛平をWikiで当たってみたら、
「合気道」とは「天地の“気”に合する道」の意、とあった。「小よく大を制することが可能である」と。
技の稽古を通して心身を錬成、自然との調和や世界平和への貢献を理念とするのだという。
これは日本の武道全般に通じる理念であり、世界に類例を見ない優れた感性ではないかと思うのだが、どうなのだろう。
西欧の騎士道は人間相手であり、宇宙の森羅万象と向き合う精神的深みはない。
こうして御託を並べている間に、とっとと合気道の初歩でも始めればいいのだが、さすがにもう手習いは遅かりき。
植芝盛平は出口王仁三郎の信奉者であったそうで、これは意外だった。
出口王仁三郎は、宗教の分野の巨人である。
修行中に、黄金の光りに包まれ宇宙と一体化するという神秘体験を
経ての合気道であるようだ。
面白い。
体と精神を別物に考えるのは西欧の二元論だが、東洋では
心身不二と説く。
魂が肉体の容れ物から離れてしまえば、肉と魂は分離して別物だが、
呼吸がある間は不即不離の関係であろう。
「生き」はすなわち「息」であろうか。
私が文部科学大臣だったら、児童に日本の詩歌を音読暗唱させ
日本語の響きの美しさを体にすり込むと同時に、語彙を豊かに
させるが、体育には合気道を取り入れたい。書道の時間を増やしたい。
茶道も学ばせたい。
勉学が全て「道」に連なるような学習カリキュラムを夢見る。
日本を極めることが、実は世界に通じる。
本当のグローバル化とはそういうことであろうと思われる。