さて久々に、政治分野の発言。
イスラム国の人質の一件で、世界の一方的横暴に対して
平和憲法が無力なのではないかという疑義があちこちで散見される。
それで、憲法の前文に目を通してみて、いささか、うなった。
私は紙に書いた文言で国防がなるとは、もとより思ってはいないが
それにしても、相手を「善(い)い人」として前提においた憲法に
危うさを感じる。
ちなみに前文ではあるが、日本国憲法の一部である。
以下抜粋。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
ー抜粋ここまでー
どうであろうか
私はこの抜粋した箇所に著しく躓くのだが。とりわけブルーの濃い箇所に。
>人間相互の関係を支配する崇高な理想
人間相互の関係を崇高な理想が支配してなどいない。あるのは国家間の打算と駆け引き、欲望、として嘘とはったり、恫喝である。
>和を愛する諸国民の公正と信義に信頼
諸国に公正と信義あらば、どの国も防衛に汲々とはしない。
お金はもっと生産的なことに回す。
イスラム国のテロリズムも、準戦争なのであり、ある戦争は巨大な
テロでしかない。
>政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務
政治道徳を責務と心得る国があれば、どの国にも軍隊は不要であろう。
しかし、毎度思うのだがなんという悪文であろう。日本語として醜い。
GHQアメリカの押し付けであるか否かの論議をさておくとして、この言葉の
歪み方に私は憲法を好まない。
よほど文章の未熟な人が書いたのか、あるいはいっそ横文字を無理やり縦にしたのか、と実は穿って思う。
誠意と真実の希薄な、から文句。(あくまでも、日本語の文章としての見地からである)・・・・・・いや正直に言えば、これが日本人の自発的な文章か?
と思う。文章のレベルだけではなく、その発想がありえないお花畑。
一度番組で一緒したことのあるパッくん? が平和憲法護持を
テレビで訴えていた。有難いが、しかし日本に言う前に
アメリカに言ってあげたらいかがだろう(祖国はアメリカだったような。
まあどこであれ、祖国に訴えて欲しいのだ)
九条にノーベル賞を与えよという運動が起きるほど
絶賛されている憲法なのに、なぜ他国は持たぬのか。
日本だけなのか。
永世中立国のスイスにすら国民皆兵制で徴兵制があり、各家庭が
自衛の武器を備えているのは何ゆえか、
思案を巡らす価値はあるのではないだろうか。
2013年に徴兵制を廃止したウクライナでは、翌年発生したロシアのクリミア侵攻の後に徴兵制が復活した。
ちなみに私は強く平和を希求し、あらゆる戦争を忌避する者である。
自身が美だの芸術だの志向する軟弱者であり、武器や匍匐前進など
出来りゃ避けたい。
しかし、そんな私が日本の憲法で戦後70年の平和が担保されたとは思ってはいない。
日本を守ったのはアメリカの核の「恫喝力」(敢えて抑止力というきれいな言語は
用いない)であると思っている。
そのアメリカも、自国を核の危険にさらしてまで、日本を守ってくれはしない。
世界の発言権は、残念ながら核保有の有無に比例、反比例する。
・・・・・ちなみに「穿った見方」というのは、実は深い本質を捉えた見方と
肯定的な意味が本来なのだが、昨今、「平均的見方とは違う」という
誤用が国民の半数近くでなされているという。
私は、本来の意味3,誤用7ぐらいのニュアンスで「穿って」と用いた。
言葉の変遷期にはこういう落ち着きのない使い方を余儀なくされる。
とりわけ正誤が半々の使用のされ方の時期には。
おそらくいずれ、誤用が取って代わると思われるが。
私はいまだ、悩むのが「習い性と成る」である。
これを「ならいしょうとなる」と読むか、「ならい、せいとなる」と読むか、
迷う。後者が正しいが、前者が余りにも市民権を得すぎている。
変換ミス、うっかりミスをやらかすブログで余り偉そうにも書けないが。