闇深くして、光が眩しいというごときことなのでしょうか、
表題ですが。
昌子源(しょうじ げん)選手がベルギー戦の3失点目のシーンについて触れた時ですが、相手選手の動きが「スローモーションで見えた」という言葉を
興味深く読みました。
「めちゃくちゃスローモーションに見えて。何を犠牲にしてでも、頼むから届いてくれ。そう思ったことは今までなかった。あれだけ必死に走っているのに、気持ちでは頼む、ルカクがそのままシュート打ってくれって思いが浮かんでくる。ハセさん(長谷部)にも声が届かない。無抵抗。こんだけ頑張ってるのに何もできない自分。腹立った。本当に自分の目の前で決められたから」
車が対向車と衝突する直前や、谷を落下する時にも周りの動きが
スローモーションになるそうで、極限状況で時間が三次元とは異なる動きを
見せるのかもしれません。
となれば、時間の速度ですら異次元に変化するほど、昌子選手は自分を
極限に追い込んで、その時はその言葉通りの意味で命を捨てて
かかっていたのでしょう。
そこまでして逃したものなら、もうそんなに自分を責めないで、苦しまないで、
と言ってあげたいのですが、しかしそれだけの苦しみを谷として持つゆえに
高みを得た時の恍惚がすごいのでしょう。
自分で選んだ人生です。
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」
J'ai l'extase et j'ai la terreur d'être choisi.
太宰治が、作品のエピグラフに引いたヴェルレーヌの言葉です。
誤変換他 後ほど