中国から文字を輸入するまで日本には文字がなかった、と
いう説に半ば本能的な違和感を抱いていたのだが、
この間縄文展を見に行ってその文明の高さに
驚嘆して以来、なおその違和感は膨らんでいる。
同時期のメソポタミアでの出土品もあったのだが、
縄文時代のそれに遜色はない。
これも何度か記して来たことだが、これほど豊穣な言語を持つ
我が国に文字がなかったということのほうが、むしろ不自然。
更に、遣唐使ばかりが言われているがあちらから
「遣日使」として日本に学びに来た人々が少なからずいたことを
思えば、なぜ文字のある国がなかった国にわざわざ
命の危険を冒してまで学びに来るのか、それもまた不思議、
あり得ないことであろう。
神代文字については、何度か記してきたけれど
この文字はいまだ神社のお守りに使われている。
だから日本に漢字以前に文字がなかった、ということは少なくともない。
岩に彫り込まれた文字、ヒェログラフもある。
何らかの理由ーー便宜性か?ーーで漢字のほうを採択し、
それが平仮名カタカナとして速やかに発展、取り入れた文化を
自家薬籠中のものとして更にレベルを高く
使いこなすのは日本のお家芸である。元々文字を使いこなしていた
素地がなければ取り入れた漢字の急速な発展はなかったろうとも
思う。
世界最古の長編である「源氏物語」の誕生も、文字の素養が
もともとなければ、いきなりの登場はないのではなかろうか。
万葉集における庶民たちは優れた詩人であった。
それにしても、日本の学者の一部が日本文化が劣っているように
言い立てることに懸命なのも不思議な眺めで、たとえば中国。
日本で箸が6千年前(縄文期)にあった、と一部で発表されたらすかさず中国では
6千500万年前にあったと言い始めた。
それが事実かどうかは知らねども。
韓国にいたっては「朝鮮通信使」を日本に文化を伝えてやった存在と
大真面目に信じ込んでいる。当の通信使の残した記録によれば、
彼らが日本の豊かさと美しさを羨望、嫉妬の唾を吐き散らして
いたことは如実であるのに、あちらでは都合の悪い史実は
あたかもなかったように、目を逸らす芸に長けている。
通信使の目的には日本の優れた技術視察目的もあり、
科学技術に関心の高かった世宗から日本の技術の調査を命じられたのが
朴端生という正史であり、それは1428年のことである。
文化文明はどうあっても中国発祥であり、それが朝鮮半島を
伝って日本へ来たという「神話」を頑なに信じ込んで
いる人達がいる。
果たしてそうか。例えば仏教には南伝と北伝があり、南伝は
スリランカ経由である。
「魏志倭人伝」などによる日本人手づかみ説を知らぬわけではないが、
一方「古事記」と「日本書紀」には箸らしき記述がある。
縄文時代にすでに煮炊きの「熱い」食文化があったことを思うと、
手づかみ説はどうにも肯んじ難いのである。当時、すでに漆の
食器まであった食文化に、箸がないことがむしろ不自然に
思われ発見される匙だけが食の道具ではなかったであろう。
出土する棒状のものを学者はかんざしと言い立てるが、
かんざしに見立てるには長過ぎるものもある。
たとえば箸にまつわる礼儀作法で、これほど細部に渡るマナーが
中国や韓国で示されているであろうか。
「迷い箸」などの無作法は基礎的に心得ているであろうが、
まだまだある。
箸渡し 合わせ箸 拾い箸 舐り箸 立て箸 刺し箸 叩き箸 涙箸 寄せ箸
指し箸 箸渡し 噛み箸 探り箸
かくも多岐に渡る箸のマナーが、貰い物文化の中で醸成されるものかどうか。
韓国における歴史のように、こうでありたいというファンタジーを
歴史に持ち込むべきではないが、わざわざ日本を貶める学説に
邁進し、それを信じ込む一群がいることが、不可解である。
自虐の民の誕生は敗戦とGHQの施策によるが、いいかげん
卒業しないと、子供たちが自国に誇りを持てなくなってしまう。
グローバル化とやらも、自国へのプライドを軸にせねば
文化的根無し草への道を歩むだけであろう。